今回は『デジモンアドベンチャー ラスエボ』の考察記事となります
こちらはガッツリとネタバレしていくので、気をつけてください
カエルくん(以下カエル)
「比較的軽めの感想記事が読みたい方は、こちらを参照してください」
主
「本当に語りたいことが山積みで……色々な思いがこもる映画となっています。
解釈違いとかもあるだろうし、自分の思い出補正も込み込みですが……よければ読んでください。読み応えが抜群の記事です」
カエル「では、感想記事のスタートです!」
(C)本郷あきよし・東映アニメーション
YouTube配信もやっています
映画レビュー『デジモンアドベンチャー ラストエヴォリューション絆』をネタバレ徹底解説!カメガタリ#10〜物語る亀〜
デジモンが描いてきたデジタル描写
デジモンが流行した時代背景
では、まずはデジモンが描いてきた”デジタル描写”について考えていきましょう
ここは結構大事な社会性があるんだよ
カエル「まずは、99年に公開された『デジモンアドベンチャー』ならびに『ぼくらのウォーゲーム』の時代について、振り返りましょう」
主「まずは個人的な経験からすると……あの2000年前後の時代って、まだ一家に一台パソコンがあるって時代とまでは行かないんだよね。もちろん、ある家にはあるけれど、ネット環境がない家もザラにあった。
うちもパソコン自体はあったけれど、契約が面倒だし使わないからと、ネットには繋げていなかったかなぁ……」
カエル「日本総研によりますと、インターネットの世帯普及率は1998年で11%。2000年で16%となっています。
また、1999年にはIモードが登場し、携帯電話でブラウザの閲覧、メールの送受信ができるようになっていきます。
つまり、インターネットが各家庭に普及し始める、まさに過渡期の時代だったわけだね
『ぼくらのウォーゲーム』でネタとしても有名な『ここ、島根だぞ』というパソコンが島根にはないという発言だけれど、これはまあ納得できるものだった。
カエル「島根がどうこうというよりも、ネット環境があるのはごく一部の限られた家庭であり、また年配の方が多い地域ではパソコンで何ができるのか、ということもわからなかったんじゃないかなぁ」
主「今よりもデジタル自体が少し距離があるけれど、でも決して絵空事ではない……大人であれば使うことができるであろうもの、それがパソコンやネットなどだったわけだ」
デジタルに対する意識の違う現代
そう考えると、今はスマホで毎日どころか毎時間SNSネットに接続しているんだから、すごい時代だよね!
その意味では、デジタル世代の成長と共に生まれたコンテンツと言えるかもしれない
カエル「『ぼくらのウォーゲーム』でも、同時に携帯が鳴り出して全員が一斉にチェックするというシーンがあるけれど、デジタル技術によって人間の行動が画一的になる、あるいは生活に欠かせなくなるという描写でもあったよね」
主「デジタルツールは一部の技術者などをのぞいて”大人にはよく理解できない、新しい技術”だったわけだ。
それをモンスターに見立てて、扱いを誤ると恐ろしいことになる存在だけれど、正しい扱い方をすると友達(大きなメリット)になれるもの、として描いたのがデジモンだった」
だけれど、現代ではみんなスマホを持っているもんね
今作の序盤でもデジタルとの向き合い方の変化が描かれている
カエル「事故の現場をスマホの写真で撮る、などのような、現実の行為に対してもどこか人ごとのような行動をとる人がいる、という社会的な問題になっていることだね」
主「ここだけをみても、デジタル機器に対する扱い方は変わっている。
それこそ、太一たちはホワイトハッカーみたいな扱いなのかな?
何気ない描写のようだけれど、だからこそ重要な時代の変化が描かれている。
デジタルに対する見方が変わり、デジモンのあり方も変化する時代に差し掛かっているのかもしれないね」
序盤の描き方
1戦目と2戦目の描き方
では、話を作品に戻しましょう
今作の面白いところは、1戦目と2戦目の描き方にあると思う
カエル「すごく端的に語ってしまうと、1戦目が99年版の『デジモンアドベンチャー』オマージュであり、2戦目は『ぼくらのウォーゲーム』のオマージュだよね。
オメガモンが出てきたりとか、あるいは戦闘(メインで活躍)するのが、太一、ヤマト、光子郎、タケルというメンバーもウォーゲームと同じだね」
主「1時間もない物語だから、キャラクターを絞った結果がヤマトと太一をより強調する描き方だった。
そしてそれは今作でも踏襲されているわけだ。
で、1戦目の魅力はボレロが流れながらの戦闘シーン……つまり、細田守オマージュもさることながら、やはり大迫力&現実に存在する街を舞台にした戦闘だ」
カエル「結構生々しいものだったよね。
それこそ、99年版を思い出したよ……」
主「その中でも面白かったのは、デジモンの重さを感じさせる動き方かなぁ。
特に太一の軽快な動きに比べて、グレイモンは非常に重い。
この辺りは怪獣映画を連想する。これはシリーズディレクターでもあった角銅博之の趣味でもあり、東宝怪獣映画のオマージュもふんだんに盛り込んだというけれど、それが復活した形だ」
作画面も非常に見応えがあって、大迫力だったね!
デジモンの恐ろしさというものがよく出ている
主「実は『ぼくらのウォーゲーム』の記事を書きかけているんだけれど……デジモンとポケモンの戦闘面の違いは、この重量感やリアル感だと思っているんだ。
ポケモンはあくまでも架空の世界を舞台としており、デジモンに比べると破壊力は抜群ながらも、描写そのものは大人しめになっている。
一方で、デジモンの場合は街を破壊することも当然ありうる。
これは……深読みだけれど”デジタル”という現実に存在する機械をモンスター化していることもあり、現実に対する影響なども描きたかったのではないだろうか?」
カエル「過去作もピエモンとか、子供からするとホラーとして怖い描写も結構あったよね……」
怖いだけでないデジモンたち
一方で怖い存在で収まらないのがデジモンでもあるわけで……
普段は小さくて、可愛らしい存在だからね
カエル「すごくいいなぁ、と思ったのが、太一たち人間パートがシリアスな話をしている中でも、のほほんとマイペースさを崩さないデジモンたちの姿だよね。
今作ではあまり出番がなかったけれど、ゴマモンなんてtriでは丈の彼女じゃん! っていうほど可愛らしかったり、今作で言えばテントモンがお母さんみたいだったり……
そのいい意味で空気が読めてない様子が、デジモンたちの魅力でもあるね」
主「特にいいのがハンバーガーを山盛り食べさせて、一刻も早く進化させようとしている部分だよねぇ……と、ちょっと話が先に進んでしまった。
最初の戦闘が終わった後、カメラが引いて街の全体像を捉えながら、太一たちとアグモンたちを一緒に撮るシーンが入る。ここで、先ほどとは打って変わって、デジモンたちが小さい姿を描いている。
これって……デジモンたちの日常を描いているんだろうな、って印象だった」
カエル「そう言えば、太一たちはデジモンを倒す日々を送っているようだったしね」
主「今作で1つのキーワードとなるのが”日常と変化”ということだけれど、序盤はかつてのデジモンの要素=日常・過去を強調するようなシーンが目立っていた。
だからこそ、後半に一気に変化が胸にくるような仕掛けになっているのではないだろうか?」
成長と困惑の中の太一とヤマト
太一とヤマトの2人の強調
今作は、ほぼほぼ90分太一とヤマトの2人の強調で物語が作られていたね
ここは英断だったと言えるだろう
カエル「そもそも90分のお話で選ばれし子供たち+02メンバーを描くなんてことをやると物語が破綻するし、この選択はよかったのではないでしょうか?」
主「基本として、デジモンアドベンチャーはやっぱりこの2人の物語なんだと思う。
特に、今作は久々に太一が太一を、ヤマトがヤマトをやっている描写がみれて、すごく良かった。
どうしても成長したキャラクターを扱うのは難しくて、1度グジグジと悩ませたりとして、そこから脱却して再び成長を描こうとするけれど……それだとキャラクターがブレるんだよね。
ちゃんと熱血漢でみんなを引っ張っていく太一と、孤高なようで実は思いやりに溢れているヤマトの姿を久々にみれただけでも、評価したい部分があります」
この2人の物語を強調する描写が序盤にあるんだよね?
1回目の戦闘が終わった後、この2人は同じ方向にいくんだよね
主「太一は歩いて、ヤマトはバイクに乗ってだけれど、同じ方向に向かって進んでいく。そしてそれを残りのメンバーは見つめている、という構図だけれど、ここで”やり方は違えども、結果的に2人は同じ方向へ向かう”ということが描かれている。
テレビシリーズなどでもそのような描写が多かったけれど、今作でもその関係性を予感させる描き方だ」
例えやり方は違くても、同じ方向へ向かう2人
ある種のバディものとしても楽しめる作品です
(C)本郷あきよし・東映アニメーション
大人になっていく2人の演出
2人でお酒を呑むシーンとか、象徴的だよねぇ
同時に、大人になり切れていない半端な部分も描いているんだ
主「最もわかりやすいのは……ヤマトが大学にいるシーンかな。選ばれし子供たちではない友人と話している時に『将来は自衛隊幹部か?』と階段で訊かれている。この描写の最中、友人は階段の上に、ヤマトは階段を登ることも降ることもできずに、ただ立ちすくんでいる。
ここで”先をいく他者を見ることしかできない”という演出が成り立つし、また”大人にも子供にもなり切れない、進路を選ぶことができないヤマト”という演出がされているわけだ」
カエル「ふむふむ……ヤマトに関してはバンドを名残惜しそうに見つめるシーンも印象的だったなぁ。
あとは、焼肉屋のシーンでモブの女の子が『大人になんてなりたくない』って語るところで、わざと2人が黙っているのも象徴的だったね」
主「ここは各キャラクターの現在の様子を説明すると同時に、先に進んでいる姿に2人が焦っている姿を描く。
でも、あれはどちらかと言えば25歳くらいの会話な気もする……20代前半ではみんな成功しすぎかな? という印象もある。
だからこそ、観客にも2人が焦る気持ちがより伝わるんだろうなぁ」
そう言えば、太一がムフフな本を隠すシーンなんかもあったよね
あれは結構象徴的だと思うよ
カエル「当たり前だけれど、テレビシリーズでは性に関するものがほとんど出てこなかったじゃない?
それこそ、デジモンであそこまで……と言っても本レベルだけれど、ムフフなものが登場するのって印象にないかなぁ」
主「一番わかりやすい男の成長だよね。
デジモンは色々とあるから、恋愛を描くことが難しいシリーズでもある。特に……太一の恋愛関係はファンの間でも論争になりやすい点があるように見受けられるし。
だけれど、いい歳の男がムフフなことに興味がないというのもなぁ……ということもあるんじゃないかな?
ここで子供の頃の自分の象徴=アグモンが、その本の意味がわからなかった、ということも、太一の成長を感じさせる部分であり、子供の頃の自分との違いを強調しているのではないだろうか?」
他のキャラクターたちの描き方
当たり前のようで残酷な描き方
じゃあ、他のキャラクターについても語っていこうか
自分が印象に残ったのが、光子郎たちにリングがなくて、ほっとするところだ
カエル「気持ちはすごいわかるなぁ……あれだけ一緒にいたデジモンとの別れなんて、誰もしたくないだろうし……」
主「だけれど、同時にこのシーンはとても残酷なようにも思える。
太一とヤマトには、すでにそのカウントダウンが始まっている。それに心を痛めつつも、自分たちはそれが来ていないと安堵する……非常にわかりやすいし、納得もするけれど、でもやっぱりモヤモヤするものがある」
カエル「誰もがそんなに誠実なキャラクターばかりじゃないからね……」
主「ここが、この後の行動への伏線のような心理描写になるのではないだろうか?
太一とヤマトはすでにカウントダウンが始まり、どうするべきか考えていた。必死に悩んで、迷って、それで結論を出した。
だけれど、光子郎をはじめとして、他のキャラクターはそんなことを考えていない。だからこそ……”過去の時間でデジモンと永遠にいる世界”に対して、少し興味を持ったのではないだろうか?」
もっとわかりやすく、源内さんが言ったように”余命宣告”に喩えよう
主「ガンでもなんでもいいんだけれど、死のカウントダウンが告げられた時……ある程度前から言われていたら、覚悟もできるかもしれない。
だけれど、唐突に死が訪れようとしている時だったら……それに抗うことを考えるだろう。
この死をデジモンとの別れに置き換えると、各キャラクターたちがあの思い出の中でに入っていったことも、納得するのではないだろうか?」
嘘をつかないメノア
次に語るのが、今作のゲストヒロインとも言えるメノアの存在です
実は、あんまり嘘をついていないのかなぁ……って思いもある
カエル「え、でも選ばれし子供たちを騙していた張本人でもあるわけじゃない?」
主「それはそうなんだけれど、でも彼女がデジモン世界の研究者であったこと、あるいはオメガモンが戦えなくなった時の反応などは、嘘ではないと言える。
彼女関連のシーンだと不思議に多いのが、水の演出なんだ」
カエル「光子郎の部屋で真実を告げるシーンでは不自然なほど水瓶がアップになっていたり、あるいは外に雨が降る中で、窓の前でパソコンを打っていたり、水着で浮かんでいるシーンがあったね」
主「あのプールで太一と話すシーンに関しては、特に嘘がない。
動機はすごく純粋なんだよ、ただその見せ方がミスリードさせようとしているだけで。
水がなんの象徴となっているのかは、まだなんとも言えないけれど……おそらく、嘘がないとか、あるいはモルフォモンのことを思い出しているという暗喩なのかもしれない。
もしくは……そのまま暗い気持ちに囚われているとか?
後半ではメノアの象徴的なモチーフでもある蝶の髪留めが水の中に落ちるけれど、それもモルフォモンへの思いが、暗い思いに囚われてしまったという暗喩なのかもね」
今作で重要な役割をはたすメノア
彼女の思い自体は本物です
(C)本郷あきよし・東映アニメーション
空の描き方〜1回目だと見えづらい物語〜
そして、大きな論争となりそうなのが空の描き方です
ここは、2回目をみて見えてきたものがあるよ
カエル「まず、先に語っておきますとYouTubeにて空のお話にあたる前日譚が公開されています。
それを見るのと見ないのとでは印象が大きく異なると思いますので、是非とも合わせて楽しんでください」
「空へ」(デジモンアドベンチャー20th メモリアルストーリー)
空関連に関しては、1回目の鑑賞の際には完全に誤読していたんだよね
カエル「その誤読ってどんなところ?」
主「……”選ばれし子供たちのうち、最初にパートナーデジモンがいなくなるのが太一とヤマトだ”と思い込んでいたんだよ」
カエル「……え、ということは空って」
主「空があのリングの意味を知っていたのかどうかはわからない。
だけれど、1番最初にパートナーを失ったのは……前日譚で自分の人生を決めた、空なんだよ。
2回目に見たときに、ピヨモンは途中からいなくなり、デジヴァイスは壊れてしまっていた。その意味することは……1つだよね。
だから戦いに出ないというのは2つの解釈ができる」
- 戦うことからの卒業→子供時代からの脱却
- ピヨモンとの時間を伸ばす
……空があのリングの意味を知っているかどうかで、解釈は大きく変わるね
でも、色々な受け取り方はできる
主「先にも語ったように、パートナーデジモンとの別れは”寿命による死”に近いものがある。
では……死にゆく場合、人はどのような対応をするだろうか?
みんながみんな、戦う……例えば抗癌剤などで少しでも寿命を伸ばそうとする、というわけではない。
中にはゆっくりとその運命を受け入れて、治療は程々にして、少しでも元気な状態を維持しようとする人もいるだろう」
カエル「……死に対して、いかに向き合うか、か……」
主「戦えばよりパートナーとの別れが近づくのはわかっている。
だけれど、メノアの案にも乗れない……それは大人になりゆく自分の、進路を決めた自分の否定だからだ。
その結果、選べる道は……自ずと1つになる。
少しでも長く、ピヨモンと一緒にいること。
このこと知っていたとしても、他の仲間を動揺させるから、誰にも相談することできない。だから1人で抱え込んでいたのではないか。
自分は、空はそんなことをするタイプだと思うよ」
カエル「……あくまでも解釈の1つだけれど、そんな読み取り方も成り立つんだね」
(C)本郷あきよし・東映アニメーション
今作の演出について
目線の映画
じゃあ、この作品の演出面で気になった部分を挙げていこうか
自分が1つ挙げるならば”目線の映画”と答えるかな
カエル「パンフレットなどでも『見上げる視線が多い』などと言われているけれど、それが大きな意味を発揮したの?」
主「例えば、中盤かな……アグモンと太一が海辺を歩くシーンがある。そこではアグモンの視点に合わせるように、太一は腰から下しか映っていない。
一方でアグモンは顔が全部入るように、ちょうどいい高さになる。これはアグモン→かつての子供の目線ということを強調しているわけだ」
カエル「もうすでに、大人になった太一とアグモンの視線の高さは違うわけだもんね……」
主「今作の場合はなぜそこでアップにするのか? そこで引くのか、あるいはカメラの高さを高く・低くするのか? という意図が伝わりやすいものとなっている。
それは身長差を見せたり、あるいはパートナーとの視点がすでに違うということを示している。他にも、ヤマトが井村のあとを追いかけて謎の部屋に入ったときは、アップを重ねることで襲われそうな雰囲気を作り出したりね。
そういった細かいポイントを重ねていくことで……あの『大きくなったね、太一』に繋がるわけだ」
カメラのアップ、あるいは引きなどで観客の感情をうまくコントロールする
(C)本郷あきよし・東映アニメーション
背後から語るもの
そして何よりも素晴らしいのが、やはり終盤の様子でしょう
ここが1番の見せ場だからねぇ
カエル「アグモン・太一コンビも、ガブモン・ヤマトコンビもカメラはずっと後ろから撮っており、顔も真正面からは映しません」
主「あの時の細かい表情は、観客の中にある。
それはある種、観客がデジモンとのお別れをする1番大事な儀式を行うシーンでもあるしね」
背中で語るシーンが大半を占める後半
その表情はどうなっているの?
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特筆すべきは全てが終わった後の広い空だろう
カエル「桜の中でたたずむ2人と、空を映すカメラだね……」
主「ここは先ほどの前日譚も見て欲しい。
空に対してピヨモンが語る『空があんなに広いのは、自由に飛ぶためなんだよ』という言葉は、それこそみんながパートナーと約束した『いつまでも一緒』という意味なんだ。
明日のことはわからない……でも、自由に飛ぶための空はいつでもそこにある。
そのことを感じさせてくれるラストだった。
だから、この映画ってほとんど空について語っていないけれど……でもやっぱり太一・ヤマト・空の物語だったりに受け取れるようにしたのではないだろうか?
むしろ、空について語らなかったからこそ、解釈の余地が生まれるのではないか? という部分もあり……自分は美しくて、とても好きなラストだった」
死を描くデジモン作品
予めプログラミングされた”死”
でもさ、なんでそんなに重いことをテーマにしたんだろうね?
……デジモンってさ、元々”死”が当たり前にあるオモチャなんだよ
主「子供の頃、親にデジモンのおもちゃを買ってもらったことがあるんだよね。と言っても、当時はガチャガチャの当たりとして入っていてりしてさ、試しに1回だけ回したら、はずれが出てきた。
親もムキになって、何回も回して……最後の1個でようやく取れたけれど、結局普通に買った方が安かったってオチなんだよ。
で、学校に持っていけないからさ、家に置いて世話をして、帰ってきたらすぐに世話をしていた」
カエル「当時はどんなデジモンが好きだったの?」
主「自分はもんざえモンだったなぁ。
友達とバトルしてさ、完全体だから結構強いわけ。それでお気に入りだったし、たった数日だけれど自分で育てたデジモンに愛着があった。
だけれど……デジモンって、すぐに死んじゃうんだよ。
学校から帰ってきたら死んじゃっていて、結構ショックだった。あくまでもデジタルデータだけれど、それは確かに生きていたんだよね」
……それって、なんかメノアの心情とリンクしているね
デジモンとポケモンの最大の違いって、死をプログラミングされているかいないかだと思う
主「だから、空が『戦わない』って決めたのも理解できる。
デジモンのおもちゃでも、戦いで負けると寿命が減るっていわれていたのよ。それが本当か嘘かは知らないけれどさ、でもお気に入りのデジモンと一緒にいたいから、ちょっとでも長生きさせようとして、戦わせない子もいた。
デジモンって、そういうおもちゃなんだよ。
確かに1と0のデジタルデータだけれど、そこには愛着があった。
命はないかもしれないけれど、思い出はあった。
その気持ちを見事に体現した作品でもあるんだ」
誰もがあの頃、選ばれし子供たちだった……
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成長とは、何かの喪失
……人の成長って、一体なんだろうね?
自分は、何かを喪失することだと思う
カエル「デジモンのテレビアニメ1期も最終回は別れがテーマとなっていたね…」
主「自分には、デジモンって『スタンドバイミー』を意識しているように感じられる時があるんだよ。
子供たちだけの冒険、登場人物の1人の小説の内容、そして……仲間の死。骨格が似ているだけかもしれないけれど、でもリンクするものは確かにある」
カエル「あの時代では死体探しだったかもしれないけれど、それがデジモンだったら一緒に冒険しよう、となるのかも……」
主「どちらも最後は切ないけれど、それが彼らの成長なんだ。
何かを得るだけではない、何かを失って、その喪失感を抱えながらも前向いて歩いていく……それが成長なのだろう」
デジモンの解放・デジモンからの卒業
結論として、この映画の意義ってなんだったの?
次の世代にデジモンを引き渡すための、卒業式だよ
主「デジモンアドベンチャーはアニメ史に残るであろう傑作だった。だから、観客はいつまでも太一を、ヤマトを、アグモンたちを追いかけてしまう。
だけれど、それって本当に健全だったのだろうか?
実はデジモンというコンテンツの可能性を潰していたのは、そのかつての名作を追いかけていたファンだったのかもしれない」
カエル「新しいシリーズも作って、デジモンというコンテンツを次の世代に渡す時期がきたのかな……」
主「それが1番健全な形だろう。
次の子供たちに、デジモンを引き渡すべきなんだよ。
20年過ぎて、かつての選ばれし子供たちは大人になった。
それこそ、無限大な夢の後の何もない世の中を生きている……そんな人もいるだろう。だけれど、その無限大だった過去を追い求めることに、なんの意味もないんだよ。
選ばれし子供たちが、頼りない翼で飛ぶことを決意する時がきた。
空を飛べなかったら、ピヨモンが言ったように一緒に飛んでくれる。
デジモンたちが一緒にいてくれる。
あの最後の……太一たちが見上げた空を飛ぶべきは、観客も同じなんだ。
それが寂しくないといえば嘘になるけれど……でも、その機会を設けてくれたこと、そう感じさせてくれる作品なんて、ほとんどない。
だから……20年分の思いを込めて、最大限の感謝を伝えたいね」