物語る亀

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物語愛好者の雑文

映画『時をかける少女(アニメ版、細田守)』感想&考察 おジャ魔女どれみの神回を参考に解釈する

 今回はいつもと趣向を変えて、普通のブログのように書いていこうと思います。

 特に理由はありません。

 気分転換と、たまにはこういう書き方もちゃんとできるんだよ、というアピールをしておけば、何らかの寄稿の依頼とか来ないかな……とワンチャン狙っているのですが、ひと昔前ならばともかく、個人ブログで映画ブログがここまで多い時代には中々難しいのだろうな、という思いもあります。

 

 今週は旧作について語ろう! ということで、急に細田守特集を開催しようと思っています。

 むしろクリスマスよりも夏真っ盛りのイメージが強い監督ではありますが、語りたくなったのが今なので、それはしょうがありません。

(語りたい時に書いたものが1番面白いと思うので)

 

 では、最初に監督の出世作とも言える『時をかける少女』を取り上げていきたいと思います。

 

 

 

 

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1 細田守という監督について

 

 細田守監督を知らない、という人はもはや映画好き、アニメ好きではかなり少なくなってきたと思います。

 私はあまり好きな文言ではないですが『ポストジブリ、ポスト宮崎駿』の1番手として名前が挙がり、興行収入も右肩上がり、今ではその新作の動向に日本中が注目しているというと言っても過言ではありません。

 なぜ『ポスト宮崎駿』と叫ばれたかというと、元々スタジオジブリを受けたが落ちた時に『君みたいな才能はうちにいない方がいい』と宮崎駿に直々に手紙をもらったこと、また『ハウルの動く城』におけるゴタゴタに巻き込まれたことなど何かと宮崎駿に縁のある監督であることもあるでしょう。

 

 不思議と、私はこの両者の作家性はどこか似ているところがあるのかな、とも思います。

 どちらも老舗アニメスタジオである東映アニメーション出身であり(もちろん宮崎駿は東映創設時を支えたメンバーの1人であり、時代が全く違いますが)また細かい脚本上のディティールはボロボロなのですが、圧倒的な絵の説得力によって何となく納得してしまうというところも似ています。

 

細田守ぴあ (ぴあMOOK)

印象的な女性像が多い?

 

1流の作家の条件

 

 私は1流の作家の条件として『代表作がない』ことをあげています。

 例えば宮崎駿の代表作を問われたら『カリオストロ』などの初期映画作品からスタジオジブリ作品、ほかにも『未来少年コナン』などをあげる方もいるでしょう。

 また他の映画監督でも押井守、今敏なども明確な代表作は持たず、富野由悠季もガンダムの印象は強いですが他の傑作も捨て難いものがある。

 もちろん実写も同じでチャップリン、ビリー・ワイルダー、黒澤明、リドリー・スコット、イーストウッド、スピルバーグなどは代表作を聞かれてもバラけるでしょう。

(若手監督ならばノーランやヴィルヌーブなどがそうではないでしょうか?)

 

 そんな細田監督の代表作とは何でしょうか?

 こちらも難しい。

 興行収入的には『バケモノの子』でしょうが、やはり『時をかける少女』も捨てづらいし、他の作品を挙げる人も多いでしょう。

 ちなみに、私は最高傑作は『時をかける少女』で、1番好きなのは『おおかみこどもの雨と雪』です。

 もちろん『デジモン』と答える人もいるでしょう。

 細田監督も1流の映画監督の条件を満たしていそうです。

 

 しかし細田監督の『本当の名作』を語る上で外せない作品は他にもあります。

 私は映画作品にこだわらないのであれば、細田守の最高傑作は『おジャ魔女どれみドッカ〜ン 40話 どれみと魔女をやめた魔女』だと答えます。

 

おジャ魔女どれみ ドッカ~ン! Vol.10 [DVD]

思い出の1作という方も多いのでは?

 

テレビシリーズの演出家としての細田守

 

 細田監督はテレビアニメシリーズの演出家時代の方が実は評価が高いのではないか? と私は思っています

 の中でも細田守が絵コンテ、演出を手掛けたおジャ魔女どれみのこの回は文句のつけようがない、まさしく神回と言える作品になっています。

 

 知らない方に少し説明すると、おジャ魔女どれみは1999年から2003年に放映された魔法少女テレビアニメ作品です。本作の最大の特徴は『魔法から決別する少女たち』を描いたこと。

 つまり、魔法少女アニメの特徴の1つである『成長』を描いた作品となっており、彼女たちが成長するにつれて魔法を使わなくなっていき、子供から大人になっていく過程を描いた作品です。

 

 この回のあらすじを軽く説明すると、友達と別れたどれみは未来という不思議な女性と出会います。ガラス職人の彼女は実は魔女でもあったけれど、既に辞めていました。

 永遠に近い時を生きることに対する苦痛……愛する人ができても魔女と知られてはいけないために、別れなければいけない苦悩……それらをどれみに話した後、自分と一緒に行くか? と未来は尋ねます。

 悩みに悩み、そしてどれみが決意をして未来の元へ向かった後では、彼女はすでに引っ越した後でした……

 

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この回で重要になる原田知世が演じる未来さんとどれみ

(C)ABC・東映アニメーション

 

 この回は明らかに『時をかける少女』のプロトタイプとなっています。

 登場する『未来』を演じているのは時をかける少女のシリーズでも重要な役割を果たす原田知世です。若干たどたどしい演技ではありますが、それが却って作中での彼女の特殊な立ち位置であることを示す『演出』になっています。

 そして原田知世といえば、初代であり今でも語り継がれる時をかける少女にて芳山和子を演じた人物でもあります。

 また、本作で登場する未来と、アニメ版の時かけでの芳山和子は共に主人公を導く役目として重要な役回りを担っています。

(余談ですが、どれみと真琴のキャラクター性もアホの子だけれど、根はいい子ということで共通する箇所も多いです)

 

 もちろん、これだけではありませんが、ここからは時かけとどれみの共通する項目について考えていきましょう。

 

 

 

 

2 細田演出について

 

 では、ここからはまず細田演出について考えていきます。

 まずはこちらの画像をご覧ください。

 

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(C)ABC・東映アニメーション

 

 どれみにて冒頭など印象に残るカットです。

 次に見てもらうのは時かけの1カットです。

 

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 (C)「時をかける少女」製作委員会2006

 

 どちらも分岐路が描かれています。

 これは細田演出として多用されるものの1つであり、とても効果的なものでもあります。

 またどれみの話をしますが(時かけの記事じゃねぇのかよ、というツッコミは置いといて)この回ではいつもの仲間たちがあまり出て来ません。基本的にはどれみと未来さんの物語として進行していく。なぜならば、それはこの話が描くのが『成長と別れの予感』だからです。

 

 少女期において……特に小学生期の友達はとても重要なもので、もしかしたら一生友達でいると考えるものかもしれません。

 しかし、大人になってわかることですが、小学生にどれほど仲が良かった友人であっても、それが一生続くということはほとんどない。

 せいぜい1人、2人いたらいい方ではないでしょうか?

 

 このお話でどれみの友人たちはそれぞれの道を辿りながら、それぞれの理由があって家に帰ります。どれみと一緒に未来さんとあってくれる友人はいない。

 これは成長の先にある、それぞれの未来と別れを描き、そして同じ道に進む者はいないという悲しい現実を分岐路という形で表しています。

(そしてそれはこの先、どのようなキャリアを進めばいいのか悩む細田守を投影していると言ってもいいかもしれません)

 

 そしてそれは時かけでも同じです。

 その最後において、今作はハッピーエンドのようですが切ない終わり方をします。

 決して真琴と千昭と功介は同じ道を歩まないことを、この夕暮れの分岐路のシーンで示唆するとともに、本作の持つテーマについて語りかけます。

 

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光と影の演出もまた見事!

この1話はケチのつけようがありません

(C)ABC・東映アニメーション

 

 

テーマとなる『時間』

 

 この2作のテーマは紛れもなく『時間』です。

 過ぎていく時間に対して、若者たちがその将来に対していかに立ち向かうのか……そのことをがテーマとなっています。

 真琴は沢山あるタイムリープの回数を無駄使いしてしまう。そしてその結果、大事な時にそれが発揮することができません。

 それは若い頃は無限にあると思っている時間を無駄に消費していしまい、気がつけば何も残らなかったという教訓を示しています。

 

 そしてどれみでは、魔女になると無限の時間が与えられます。

 しかし、その悠久の時間の中では大切な人とは別れなければいけないし、長い時を交わることはできません。それは生きたまま牢獄に永遠に入れられることと、あるいは同じことかもしれません。

 

 時かけの真琴の場合は高校生という、未来があるようでいて、進路などの変化が多く訪れる時期に『限りないの選択肢』を与えられていながらも、そのどの選択肢も正解ではなく、時間を浪費する様を中盤までは描いています。

 一方のどれみでは小学生という変化も少ない中で、遠くにあると思われながらも、しかし確実に訪れる将来への不安と周囲との劣等感を描いた作品と言えます。

 

 つまり、時かけはもちろん原作などの要素も多々ありますが、私はどれみがあって、その発展系として時かけを描いた、という見方をしています。どれみをこれだけ語るのも、そのプロトタイプとして重要だと考えているからです。

 

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光と影の演出が光りながらも、重い一言

ちなみに私も英語が苦手なため、鑑賞当時は『ハァ?』でした(笑)

 (C)「時をかける少女」製作委員会2006

 

 

 

 

3 本作の欠点

 

 本作は紛れもなく興行的にもその評価としても成功した作品です。

 確かに後々に比べれば3億円に届かない興行収入は物足りないようにも思うかもしれませんが、元々全国6館公開という小規模上映だったことを考えれば、十分すぎる額といえるでしょう。

 しかし、SF作品としてはやはり失敗した面も多く指摘されています。

 時をかける作品、いわゆるタイムリープ系の作品の時間の捉え方は2種類あります。

 

 

1 時間の流れは1つであり、過去を変えれば未来が変わるタイプの作品。

(バック・トゥ・ザ・フューチャーなど)

2 時間旅行は時間軸を超えるだけであり、過去を変えても未来も変わらない作品。

(ドラゴンボールのように過去に人造人間などを倒しても未来は変わらないなど)

 

 

 では、本作はどちらなのでしょうか?

 その答えは……よくわかりません。

 

 1であればカラオケのシーンなどで過去と未来の真琴が同じ場所にいるはずなのに、それに邂逅しない理由が説明つきません。

 2であればある程度の説明はできるのでしょうが、ではあの悲劇的な結末を遂げてしまった場合の時間軸はどうなるのか?

 ただ真琴が時間軸を移動しただけで、実は誰も救われていないのではないか? という疑問が生じます。本作は真琴の1人称であり、ナレーションも真琴視点であることが徹底されているのでそこまで気になりませんが、実は2であった場合は結局真琴が時間軸を移動しただけ、というひどい話になります。

(また千昭は本来の未来に帰れたのか? という疑問が生じます)

 

 その視点について考えると本作は失敗作と言ってもいいぐらいご都合主義に溢れた脚本になっています。

 これは後々の作品にも言える話で、また細田守に限った話ではないですが、その描きたいことを優先させるあまりにも脚本の整合性が損なわれていることがあります。

 当時、女子高生が『時かけ超泣ける』などと言っているのを見て『何言ってるんだ?』と思ったことが印象に残っています。

 では、なぜそれほどの欠点を抱えながらも本作が成功したのか?

 それは『青春』を描いたからだと言えます。

 

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走れ、若者!

 (C)「時をかける少女」製作委員会2006

 

 

欠点をカバーする美点

 

 タイムリープを通して描きたかったものとは何でしょうか?

 それは『青春期のきらめき』だということができるでしょう。

 本作で語る特徴的な演出はさらに2つあり『タイムリープの高低差』『走るシーン』です。

 

 

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 こちらの画像はよく見かける時かけのポスターですが、作中でも真琴が感情が乗り、タイムリープを積極的に能動的に行う時は高い場所から飛び降りてタイムリープを繰り広げます。これは視覚的にとてもわかりやすい。

『清水の舞台から飛び降りる』という慣用句はそれだけの気持ちが込められているということを示していますが、本作もそれは同じです。

 そしてタイムリープの視覚的な快感を巻き起こすとともに、観客を真琴と同じ気持ちにさせるように共感性を増していくように計算されています。

 

 そしてもう1つが青春もので重要な『走る描写』です。

 これはほとんどの青春を扱った作品でも見られる伝統的なものですが、何度かこのブログでも言及しているように、走る描写というのは観客の高揚感を煽りながらも、物語としては何も進展しないというタメのシーンでもあるという、ある種の矛盾した2つの効果を期待できます。

 その2つを使い、完璧なタイムリープを遂げた後に待つ切ないラスト……その緩急の巧みさが光るとともに、観客には恋愛や進路に迷っていたあの頃を……タイムリープして消したい過去や、学生には現在があることを連想させます。

 

 このラストシーンを迎える前で真琴は多くの苦難を味わいます。

 そしてそれをリセットするためにタイムリープを繰り返し、どうしようもない過ちを犯してしまう。それは程度やSF設定はともかくとして、青春期では誰にでもあることではないでしょうか?

 その気持ちを連想させたまま、それをスピード感や高低差のある演出で昇華させて、最後には少し切なく終わらせることで青春期の儚さやきらめき、あの頃は良かったなぁ、という気持ちを刺激する……

 それが本作の最大の魅力なのかもしれません。

 

 

 

最後に

 

 ここまで語っておきながらこんなことを語るのはなんですが、私は思春期は一種の地獄だと考えています。

 繊細すぎてほんのちょっとしたことでもウダウダと考え込んでしまい、未来や選択肢が無限にあるからこそ迷いなども生じる。そして自分の学力や運動能力にランクを付けられて、それに沿った学校などにいかされて、そこでの生活が合わなくても転校や辞めるということは人生に関わることでもあって、中々難しい。

 まさしく、逃れようのない地獄であり、合わない人には徹底的に優しくない。

 そんな思いを抱える人間には、この青春はキラキラしすぎています。

 それでも、本作が細田守のフィルモグラフィーとして重要な立ち位置にあり、認めざるをえない力を秘めているのは、語るまでもありません。

 

 

 また、この後も細田守作品を語っていきますが、その際は

『サマーウォーズとデジモン』

『おおかみこどもとウテナ』

 という細田監督の名演出が光る神回を参考にしながら、語っていきたいと思っています。

 

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