カエルくん(以下カエル)
「桜桃忌も過ぎてこの記事を書くのもなんだけれどね。
今年はいったの?」
ブログ主(以下主)
「さすがに平日に桜桃忌に行くのはなぁ……
記事でも書いたけれど、昨年は日曜日であることにも加えて色々と重なった年でもあってさ。太宰の娘の津島佑子さんが亡くなったこともあって、小説好きの中では注目度もいつも以上に上がっていたんだよ」
カエル「あれ? 太宰ファンって毎年のように桜桃忌にいくものなんじゃないの?」
主「いや、自分は特別に太宰を贔屓しているわけではないので」
カエル「……え? 太宰ファンじゃないの?」
主「いや、太宰治は普通に好きだよ? でも太宰ファンって『世界で1番太宰治が好き!』って人が結構多いんだよ。で、自分はそういうタイプではない。好きな作家だけど、熱を入れて読んだ時期は……学生時代の2ヶ月くらいかもね。
面白い作家だけど句読点の多い文章が気になるなぁ……って思ったり」
カエル「まあ、太宰ファンって簡単に言ってしまうと『お前みたいな無知な人間が太宰ファンなんていうな!』という人もいるかもしれないしね」
主「自分は太宰治の盟友であり、同じ無頼派の代表格の坂口安吾の大ファンなの。
太宰治などの批評で有名な奥野健男なんかは『太宰治は母であり、坂口安吾は父であり、三島由紀夫は兄である』なんて言っていたように記憶しているけれど……坂口安吾が父であるのは同じ。
ただ自分の場合は太宰じゃなくて寺山修司が入ってくるかなぁ」
カエル「……まあ、どちらも文壇の破壊者みたいなところはあるしねぇ。
で、今回はそんな人が考える太宰治像についての考察ということだね」
主「ということは『無頼派としての太宰治』を中心に考えていくことになるので、そこのところよろしく!」
1 無頼派とは何か?
カエル「そもそも太宰治も含まれている無頼派ってなんなの?」
主「簡単に言えば『文学とは何か?』ということを考えた時に、それまでの流れを否定した人たち、とでもいうのかなぁ。
例えば文学というと、これは現代でも似たようなところがあるけれど、昔ながらの和歌だとか漢文などのような歴史ある表現は文学的だと考える人は多いでしょう。あとは、随筆だったりといった古典とか。
当時は自然主義文学が文学的と称されていて、リアルに起こった出来事をそのまま描くということが田山花袋の『蒲団』以降、文学的な表現だとされていた。
一方で江戸時代の……例えば『南総里見八犬伝』とかさ『東海道中膝栗毛』とか、あるいは今でいうミステリーやファンタジーなどのような娯楽性の高い作品(嘘の多く含まれた物語)は女子供向けの、文学的とは言えない小説だと言われていた」
カエル「今でいうと純文学とライトノベルみたいなものかもしれないね。ライトノベルを文学だ! という人って少数派だろうし」
主「……語弊もあるかもしれないけれど、まあいいや。で、太宰治や坂口安吾、織田作之助といった無頼派の面々はそれに反対したわけ。
織田作之助は『可能性の文学』という随筆において『嘘をつく快楽が同時に真実への愛である』ということについて言及している。作品を要約すると本当のことしか書かない小説が素晴らしいって価値観はおかしいんじゃないの? ってことだ」
カエル「既存の価値観への反抗でもあるわけだね」
主「それに同調したのが親友であった太宰治や坂口安吾であるわけだ。安吾は『新戯作主義』を唱えて、娯楽性の高い小説を書こうとしていた。だから、個人的には安吾や太宰などを純文学の括りに入れて語ろうとするのは反対する。それは彼らが主張したこととはちょっと違うと思うからだ」
カエル「無頼派の目指した文学が『純文学』と呼ばれるようになったと思ったら、それはそれで間違いでもないのかもしれないけれど……」
無頼派が人気を集めたわけ
カエル「でもさ、なんで無頼派ってそんなに人気になったの?」
主「やはり終戦の影響があるだろうな。
彼らが人気を集めたのは1945年以降のことである。もちろん、戦中は表現がやりにくいという事情はあったけれど、自分はこの終戦という時期が無頼派の人気を不動のものしたと思っている」
カエル「終戦が?」
主「1945年ってそれまでの価値観が全て崩壊した年なんだよね。それまで権威とされたもの、正しいとされた価値観、そういったものが何の意味もないということがまざまざと見せつけられた年でもある。
そこに出てきたのが無頼派の面々である。彼らが1番に噛み付いたのは『小説の神様』と呼ばれ、最も権威的に扱われた志賀直哉だった。これから解説する坂口安吾の『不良少年とキリスト』や戦術の『可能性の文学』でも、それから太宰治の『如是我聞』においても批判されている。
その理由は単純に文壇の最も権威的な存在だったからだよ。
それまでの文壇の権威の象徴でもあった」
カエル「結構ひどいことを言われているよね……」
主「まあ、自分も同調するけれどね。志賀直哉の小説を読んで面白いと思ったことがない。
ただ、文章が美しいということはわかる。
だから無頼派はみんな『小説家』ではなくて『文章家』だと非難するわけだ。それは真っ当な評価だとは思うけれど、当時は内容が面白いか否かということよりも、文章の美しさであったり、どれだけ真実に近いのか? ということを注視していたということだろうな」
カエル「まあ、志賀直哉の評価は別として、そういった権威的なものに対して抗う、新しい運動が始まったから熱狂したと考えているんだね?」
主「あとは、1つ言えるのは織田作之助は死ぬのが5年早すぎた。
坂口安吾は逆に5年遅すぎた。
そう考えると太宰治はちょうどいい時に死んだよ。代表作も書いて、あとはおそらく下り坂の作家人生が待っているだけだろうし。
織田作之助はこれから素晴らしい小説を書くという時に亡くなり、安吾はあまり評価の芳しくない晩年の作品を書きながら死んだ。現に代表作は大体1945年から1950年頃までに書かれたものが多い。
そう考えると、芥川龍之介も然り、三島由紀夫も然りで死ぬ時期ってすごく大事だよね」
カエル「……なんか物々しい話になってきたなぁ」
2 不良少年とキリスト
カエル「今回語るのはこの『不良少年とキリスト』という随筆だけど、簡単に言うとどんな作品なの?」
主「歯が痛いって話」
カエル「……歯が痛い?」
主「そう。歯が痛いから医者に処方された薬を飲んだけれどやっぱり痛くて、10日間ぐらい我慢している最中に奥さんに八つ当たりしていたら、治った後に嫌味を言われたって話」
カエル「……え? そんな話なの?」
主「導入はね。そして歯痛が治った後に太宰が死んだという話を檀一雄がするためにやってきて、そこから太宰治の回想が始まるわけだ。
自分が安吾党なのもあるけれど、多分太宰治について語った文章としては一級品の出来じゃないかな?」
カエル「まあ、ずっと一緒にいたある意味では心中した山崎富栄よりも付き合いは長いかもしれないし、それこそ家族以上に知った仲とも言えるからねぇ。さぞかし文章力のある、名文を書いているんでしょうね」
主「……いや、文章力云々はかなり疑問があるよ?」
カエル「……は? 文豪が盟友を追悼している文章だよ?」
主「安吾の文章って癖が強くてさ。特にこのエッセイは構成とかも一切考えずに勢い任せで書き上げたのが伝わってくるものなんだよ。太宰を『フツカヨイ的に書いた』って言っているけれど、この文章の方がフツカヨイなんじゃないか? って言いたくなるくらい。
しかもインテリなのもあるのか単語が独特で……先にもあげたようにフツカヨイ的だとか、M,Cとか、あとはファルスとかってなんの意味なのかは解釈が分かれるかも」
カエル「今時ならばM,Cって司会者って意味だろうけれど、安吾はマイ・コメディアンとか言っていて……多分道化的、喜劇的な表現者って意味だと思うけれど、今では全く使わない言葉だよね」
主「だからこの作品を読んでも安吾を読みなれていないと意味がわからないかもね」
それぞれの無頼派
カエル「で、本作の中で今回は何を語るの?」
主「今でこそ太宰って自堕落というか、破滅的な印象があるかもしれない。ある意味では自暴自棄ともいうか……でも安吾が語る太宰って誰よりも常識人だったみたいなんだよ。
そして何よりも気が小さくて、見栄っ張りだと言ったようなことを言っている。上記の『フツカヨイ』の意味って勢いに任せて一気に書き上げるというものだと思うけれど……ほら、フツカヨイの時って勢いに任せて飲みまくって、次の日になって後悔したり、前の日の行いに赤面したりするじゃない? それを称してフツカヨイって言っているんじゃないかな?
で、そのフツカヨイ的に書いていたのが太宰だという話だよ」
カエル「う〜ん……わかるようなわからないような……」
主「これって志賀直哉批判でもその傾向ってあって、同じ無頼派の3人は全員批判する作品を発表しているけれど、織田作之助は『功績やその文章の努力は認めるが、志賀の作品は文学という大河の中でも傍流である』と語っている。意外と冷静なんだよね。
坂口安吾は『文学者ではなく、文章家に過ぎない』とバッサリと切っている。特に深くは言及していないけれど、この歯切れの良さもまた安吾らしい。
だけど太宰の如是我聞って、すっごくダラダラと志賀直哉の悪口を書いている割には要領を得ないというか……わかりそうでわからない文章が続いている」
カエル「あくまでも個人の感想です」
主「如是我聞って、本当に志賀直哉に頭にきて一気に書き上げたけれど、あの手の文章って後から読み返して『俺、何を言っているんだろ?』って恥ずかしくなるものなんだよ。いうなれば深夜テンションで一気に書き上げた文章みたいなものでさ。
これは太宰の魅力でもあるんだろうけれど、その本音を隠すために結構取り繕ったような表現もしている、それが作家としての大成を妨げたというのがこの『不良少年とキリスト』で語られている。
もっとエンターテイナーとして徹することによって巧みな作家になれたはずなのに……ってことだ」
カエル「後々の時代から見るとむしろ太宰が無頼派で1番大成した作家だけどね……」
主「でも、それは最初に語った死んだ時期もあるよ。もっともいい時期に自殺しているから人々の印象には根強く残るってのもあるんじゃないか?
あの共感性の強い文章は素晴らしいものだけどね」
死した太宰と生きた安吾
カエル「でもさ、主は一体なにを持ってこの作品が素晴らしいって言っているの? だって構成も無茶苦茶、力任せで書いたものなんでしょ?」
主「……無頼派の3人って先にも述べた通り死んだ時期が早い遅いがあるんだけど、そこにスタンスの違いが出ているんだよ。
織田作之助は病死で早世、太宰治は自殺、坂口安吾は若いといえば若いけれど無茶苦茶な生活を思えばよく体が持った方だと思う。
この3人の無頼派の中で最後まで生き抜いたのが坂口安吾なんだよ」
カエル「ふむふむ……」
主「『不良少年とキリスト』の中で安吾が語るのは『人間は生きることが、全部である』ということだ。これはすごく当然のことで、誰でも言えることかもしれない。でも、このたった1行に……太宰に対する思いがとんでもなく詰まっている。
別にさ、安吾は生きることは楽しいとも、未来があるとも言っていないよ? むしろ逆なんだよ。生きることは辛いことだし、勝つというものでもない。
『勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何に、勝つつもりなんだ』
この言葉が示すように安吾は生き抜くことを決めた。そしてそれは太宰の死も影響していることは明らかだろう」
カエル「すごく当たり前のようで、実は当たり前じゃないことか……」
主「無頼派ってやっぱり無茶苦茶で、人間的にはとても優れている人とは言えない。自分もファンではあっても、決して近づきたくないし現代なら毎日大炎上だろう。だけど、そんな人が『何があっても生き抜くんだ』と決めた。これは素晴らしい事じゃないか?」
カエル「最後に太宰論として語ろうか」
主「織田作之助は病気で早世したけれど、文章を読む限りではやはり生き抜く気はあっただろう。安吾はとても強い人間で、その病的なまでに強靭な意志が文章からも伝わってくる。
一方で太宰治はすごく弱い人間だと思う。名家の生まれということをグジグジと考えて、なんとかとり繕って、狂言的とも称される自殺を繰り返した。それもある意味では、現代でいえば構ってちゃんのアピールなのかもしれない。
その意味では太宰の自殺って『自殺の失敗に失敗して自殺した』という、あべこべな言葉遊びのような部分があると思う。
だけどその弱さが、自分を取り繕う姿こそが多くの人を魅了して離さないものかもしれないね。多分、それって多くの人が抱えているものなんだよ。特に文学青年、文学少女と呼ばれている人は内向的だったり、色々と複雑な葛藤を抱えている可能性が高い。
その葛藤の中に……あえてこの表現を使うけれど『付け入る』作家が太宰治なんだろう」
最後に
カエル「なんか今回は太宰論なのか安吾論なのかわからない内容になったね……」
主「安吾が大好きだからしょうがないよね!
そうだなぁ……せめて5年前だったら安吾に関してとんでもなく中身があることが書けたかもしれないなぁ。もう今はあの頃の熱がほとんどなくて……一時期安吾しか読んでいない時期があったほどだから」
カエル「それはそれで面倒くさいなぁ」
主「安吾は力強い文章が魅力だけど、決して上手い作家ではないし、真似するべき作家だとも思わないよ? その意味では太宰の真似をした方が多分文章力につながる。
先ほどの例で言うと太宰が自らの弱さを内包して苦悩した作家だとしたら、安吾はその弱さを克服してもっと強固な自分を発見した作家なんだよ。だからとんでもなく強い。多分安吾の思想を変えることは、キリストや釈迦でも無理だろう。
その力強さが魅力でもあり、そしてとっつきにくさでもあるのかもねぇ」
カエル「……最後まで安吾論で貫きとおしたな」