物語る亀

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物語愛好者の雑文

小説『お手洗い純恋歌』

 男子トイレの個室に広がっていたのは、呑み屋といえども近年稀に見るゲロの海でした。


 父はよく申しておりました。
 酒は人生の小便だと。
 誰もが触れたくないだろうし、忌み嫌うものだろうが、生きている限り毎日やらなくてはならないことだ、と。
 それは毎日飽きることもなくアルコールを摂取し続けて、母に小言を言われて記憶をなくしても痛飲していた父の自虐的な言い訳であったのでしょう。何回も同じく痛い目にあい、原因もわかりきっている。それが体にいいわけもなく、懐も少しずつ薄くなっていく。

 それでも毎日のように何処かに繰り出しては、飲み、吐き、痛める。
 母もいつも言っていました。やめるまではいかなくとも、酒量を控えればいいだけの話だと。しかし出し始めた小用が止まらぬように、飲み始めた酒は止まらんと我が父は豪語しておりました。
 痛めた頭と吐き戻した食物の数だけ成長することができたならば、きっと今ごろ人類は太陽系すらも超えて銀河へと旅たっていたことでしょう。
 少なくとも我が家は庭付き三階一戸建てになっていました。
 もったいないことです。

 

 

 男子トイレの個室の惨状を、善意の笑顔を浮かべながらも胡散臭くて仲良くはなれそうもないお客様が知らせてくれましたが、まさかここまでとは思いませんでした。おそらくこの量は元々便器に戻す気すらなかったのでしょう。もしくは便器が逃げ回ったか、溢れ出すほどに大量のゲロを戻したか、十人がかりで吐いて回ったか。
 この海を生み出した犯人はわかっています。海を生み出すなどと言いましたが、シャレではありません。シャレで済むならば私も笑って逃げ出したい。
 犯人は合コン中の大学生グループで、箸が転がっただけでも馬鹿みたいに騒ぎ回り、男三人姦しくお互いに煽り合いながら酒を呑み、やがて呆れかえり先に席を立った女性陣にすら気がつかず、呑んで呑まれて吐きまくる。予定では女性陣に呑ませに呑ませて、介抱という名の無限の愛情をゲロにまみれながら下心満載で押し付けようとしていたのでしょうが、これでは男三人で愛宿屋でも行く羽目になるのでしょうか?

(行くとか羽目とかお下品ね)


 日本全国の一割が住むという世界屈指の楽園にせっかく田舎から出てきて、念願のネオンきらめくオシャレなお店で働き始めたのに、やっていることは男子トイレのゲロ掃除。これでは田舎のスナックという名の老人ホームと変わりません。
 こういう時こそ姉に教わった、困った時のあれの出番です。
 個室を閉めて改めて足元の海を眺めながら、一度試しに呪文を唱えます。

 


 アブラカタブラ、シッタカブッタ、ゴボウノキレハシ、ミズサラセ!

 


 目を開けてみてもやはりゲロがワインに変わって優雅な香りを撒き散らすこともなく、酸っぱいコーンポタージュのまま床に散らばったままでした。これをモーゼ様なりトイレの神様が処理してくれたら、いくらでも宗派を変えて週に一度はお賽銭をいれるのに、損したものです。しかし、お賽銭が詰まったら私が掃除することを考えれば、実は優しい判断なのかも。ありがとう、神様!
 仕方ないのでやぶさかですが、掃除を始めることにします。やぶさかの意味が違う? まさか、やぶさか、ともさかりえの三段活用を知らないとは、だから都会者は嫌なのです。
 地元では運動会の鉄板ネタなのに。


 そんなことをグダグダと考えながら海を干上がらせていると、何者かがトイレに侵入してきました。しまった、清掃中の看板をすっかり出し忘れていたかしら。
 2×歳にして男性と付き合うどころか、会話という会話を一時間以上したことが無いこの清らかな身が、他の男から溢れ出した情熱の残骸を身を汚しながら、けなげに拭き取る姿など見せていいものでしょうか?
 否、断じて否!


 そんな慌ただしい空想が個室の中で行われているとは知らない侵入者は、どうやら二人いました。ほう、個室は一つ、小便器は一つ。その中で男二人とは、少しばかり興味がわくのは女子の業を思えば当然のことではないかね?


「聡から連絡が来ない」
 この声はまだ若い……さすがに居酒屋に未成年者が来るはずないので、まだまだお酒を呑める歳になった直後といったところかな?
「そうなんだ……」
 こちらは少し高い。多分、あのデブでしょう。父と同じく喉を締め付けられているから声が高くなってしまうのです。ふーん……なるほど、あの六人掛けテーブルの男二人か……
 今日の合コンは三組で、一組は大学生の吐き散らかした馬と鹿達、一組はおとな~な雰囲気の漂う三対三のエキシビションマッチ、そして最後が地方予選初戦すらも勝ったことのないような男と女が二人ずつのタッグマッチでした。
 どれをメインにしてもつまらなそうな三試合だこと。 地方の体育館も満員にすることはできないでしょう。


「どうすんだよ……聡がいないと始まんないぞ……」
「今日のセッティングは全部聡がやっていたからね……どうすりゃいいのか何もわかんないよ」
 適当に始めたら?
「お前、なんとかしろよ!」
「え……そんなの無理だよ、母ちゃん以外の女性と話すのなんてバルセロナオリンピック以来だよ……」
 バルセロナって何年前だっけ?
 何歳なんでしょう?


「というよりもさ、そっちが何とかしてよ、合コン何回も来たんでしょ?」
「はぁ!?  あ、ああ、まあ、そうだけどさ、ほらスタートの掴みってもんがあるじゃんよ」
「また僕をダシにして、笑いもんにするつもりでしょ? だだ滑りなの全部僕のせいにして!」
「まだ部活の新入生挨拶のこと覚えてんのかよ……」
 ああ、あるある。無茶苦茶なサーブが来たから打ち返したら、明後日の方向に飛んで行くのをニヤニヤ眺めるだけの人。いや、あんたのサーブ、ド下手だからね!? 私のせいにしないでよ!

「…とにかくよ、今は行くしかあるめぇ。なんとか場をつないでさ、聡が来るまで時間を稼ぐべ」
 そういって二人とも出て行かれました。ふう、清らかな乙女が守られたようで、なんと清々しいことかしら。
 かしら、かしら、ご存知かしらと上機嫌に鼻歌を高らかに歌い上げたい気分でしたが、あの鬼女のフロアマネージャーに棍棒を振り上げられても困りものです。ああ、桃太郎、鬼を倒して私を救い出してくれないかしら!
 しかしこの場合、私は鬼の仲間となるのでしょうか。犬に噛みつかれたり、猿に引っかかれるのは百歩譲るとしても、キジに目をつつかれたくはないものです。桃太郎、キャンセル入りました!


 そんなことを考えていると手が止まってしまって仕方ない。よし、早くこの場を去ろうと掃除に取り掛かった刹那、またドタドタと駆け込んでくる音がする。しかも騒々しい足音はまた一つではありません。
 何事かと耳をすまします。 


「聡から連絡あったぞ!」
 またか! 早くテーブルに戻りなさい!
「で、で? なんて?」
 100メートルの坂道を全力疾走してきたかのように息を切らしながら答える。おかしいな、この店はそんなに広くないはずなのに。知らない間に伸びたのかしら? 何これチン百景に応募してみようかしらん。 

「原チャリが違法駐輪で持ってかれたんだと」
「え~それじゃこれなくて仕方ないね」
 う〜ん、私としては飲み屋の合コンに原チャリで来るという行為の是非を問いただしたい所ですが、来ないならば仕方ありません。呑まないかもしれませんしね。
「どうするか……聡来ないってよ」
「ぼ、僕に振らないでよ! こういうの初めてなんだから!」
「大声出すなよ!」
 二人とも十分うるさいです。
「待て待て。ここで俺らが喧嘩したって聡は来ない。そのためにもな、こうしてこの場でしっかりと作戦を立てることが大事なんだ」
 ……トイレで作戦って女子がやることじゃない? 男子がそんなにテーブルから離れちゃダメでしょ。


「それにさ、考えようによってはこれはチャンスだ」
「チャンス?」
「いつも聡に美味しいところをもってかれてよ、何をさせても最後はみんなあいつに頼る。だけど今回はいないんだ、俺達が何とかするしかない」
お? 話の流れが変わった?
「いいか、今回はやつに頼れない。俺達が、俺達だけで結果を出すんだ」
「……そうだね、うん、そうだ。僕もわがままばかり言ってられないよね。よし、やろう、やってやるさ!」
「その意気だ! 行くぞ!」
 まるで少年漫画で強大な敵との決戦シーンのようにドタドタと飛び出して行く二人。騒がないのと、走り出していくことには感心しませんが、声を震わせながら飛び出していく、その勢いはとても良いです。お姉さんも珍しく応援したい気持ちにさせられました。
 よし、仕事、頑張ります!


 
 ようやくトイレの潮干狩りも終えて、消臭剤と芳香剤をありったけ撒き散らし、何とか嘔吐の残滓を払いのけることができました。ふう、今回は強敵だった。
 トイレから出るとあれ、清掃中の看板が女性用の隣に置いてあります。誰か弄ったのでしょうか。私が置き間違えた? そんなことは……ないと……思いたいなぁ。
「長かったですね」
 臭い飯を処理して、ムショから出所してフロアに帰った第一声が鬼女からの言葉でした。いつの時代も浮世はつらいよ。
 私は精一杯の笑顔を浮かべながら振り返ります。
「すみません、お手洗いが非常に汚れていたので……」
「私も今気がつきましたが、あなた、清掃中の看板を出す場所、間違えたでしょう。何人かのお客様が隣のショッピングモールまで行ってしまいました。」
 ……ああ、やっぱり私が間違えたのかぁ。



 これはぐちぐちと小言タイムの始まりかなと覚悟していると、フロアから大きなガラスが割れる音が鳴りました。飲み屋だから酔っ払って物が割れることも少なくありませんが、今回は一枚だけではありません。
 さすがに様子を見に駆け出したマネージャーの後ろを付いていくと、一つのテーブルの前で男性が立ち尽くしていました。
 あちゃー、あれは五枚くらい割れたかな。
 多分食べ終えたお皿を積み重ねていたところ、何かの拍子に落としてしまったのでしょう。
 座っていた女性があまりの事態に思わず床にしゃがみ、皿に手を伸ばしました。もちろん手袋なんてしているはずがありません。
「動かないで!」
 マネージャーが大きな声を張り上げて急いで駆けつけます。その間に私は箒とちりとりを用意して持っていきます。

 このプロ意識の高さはやはり見習わなくてはなりません。同じバイトだというのに大したものです。口だけではないからこそ、余計に対処が困ります。


 箒とちりとりを渡して、私は男性と目を合わせました。ああ、これはいけない。酔いからくるものでしょう、目がトロンとしています。
 彼の手は真っ赤に濡れていました。一瞬だけドキリ、としたのも事実ですが、それはよくみるとトマトケチャップのようでした。皿に残っていたケチャップが手についたのでしょう。
「お客様、お怪我はありませんか?」
 そう尋ねると男性は、ああ、はい、と一言答えました。
「すみません、ナイフを落としてしまって交換してもらおうとしたのですが……」
「あ、わかりました。すぐにお席にお持ちします。拭きものも一緒にお持ちしますね」
 そう言うと彼はそそくさとテーブルに戻っていった。おとな~な合コンだと思っていたけれど、実際はそうでもないのかも。やはり年齢を重ねたからといって人間は簡単に成長できないようです。よかったね、お父さん。


 新しいナイフとフォーク、そして拭きものを渡す。
 そしてふと振り返ると、先ほどのトイレの方と思われる男性が二人、六人掛けのテーブルに座っていました。 
 ……六人掛けに二人?
 彼らはただただテーブルの一点を見つめると、ぬるいビールを飲み、カピカピに乾いた揚げ物に手をつけました。 いつからこのお店は葬式場になったのかはわかりませんが、何これチン百景に送るのは辞めようと思います。

 



「いやー、今回はトラブルがあったからね、仕方ないよね」
「初めっから聡が来こないってわかっていたらなぁ。また対処が変わったよね」
「女の子達との会話の流れも変わるだろうしさ、あれは仕方ないね」
「そうそう、次は聡に頼らないでさ、俺達でセッティングしてやろうぜ? それなりにうまいこといくでしょ」
「今回はいい勉強になったよ、次はうまくいくさ」
 ……あなた達はまずキャバクラから始めてください!
「……お会計が20870円になります」
「え?」

 二人で人数分、お支払いくださいね。



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 本来は群像劇用に書いていたような気もしますが、この作品単品でも結構面白いのでアップしています。なんか過去に書いた作品の方が面白いかも……成長って一体?

 

 

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