月刊少年マガジンで連載中のパンプキン・シザーズの新刊が発売されたのでそのレビューみたいなものを書いていきたい。
本当は今月の月マガレビューでも書こうと思っていたのだが、川原正敏作品が新連載に伴う準備のため休載(むしろ始まってもいない)、ポールルームにようこそ、ましろの音というエース格二つ欠く結果に加え、最近掲載ページ数が少ないパンプキン・シザースがさらにページ数減で10ページもなかったので、語れるものがRINしかなく、断念した次第……
色々諸事情があるにしろ、月マガは作者も編集も大変だよな……
さて、20巻は長かった帝国のテロも反攻作戦を開始し、鎮圧の兆しが見えてきた。今回は以下の3つのシーンについて語っていきたい。
なお、画像は貼りません。
Pumpkin Scissors(20) (月刊少年マガジンコミックス)
- 作者: 岩永亮太郎
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- 発売日: 2016/03/17
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1巻はこちら
Pumpkin Scissors(1) (月刊少年マガジンコミックス)
- 作者: 岩永亮太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
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1 作者の伏線回収能力
パンプキン・シザースに限らず、現在の漫画は連載期間が長くなる傾向にある。10巻越えは当たり前というよりも、むしろ円満に10巻以内に終わったとしたらそれは短い方で、30巻も珍しくなく、100巻超えなんて化け物もこち亀、ゴルゴのような一話完結作品でなくても出てきそうな勢いだ。
作家さんにもよるので一概には言えないが、連載当初に100巻を超えることを意識して書き始めている人はさすがに皆無だと思う。そうなってくると伏線の張り方や回収という計画的な部分は、長くなれば長くなるほどに破綻してくる。
当然のことながら様々なミスや、予期していない矛盾なども生じてくるわけで、それをどのように回収し、どのようにフォローするかというのも作者の腕の見せ所の一つだ。
岩永亮太郎はこの能力に非常に優れている。
元々単独歩兵が、半ば自殺のような方法で戦車を撃沈するという荒唐無稽なお話を、いかにストーリーとして説得力を持たせるかというのがこの作品の課題だと思うが、この巻においてもそれはうまくカバーしている。
所詮は人間の足と戦車、距離をおけば絶対ゼロ距離でしかオーランドの戦車への攻撃は効かないのだから、元々俊足な足を持つわけでもないし、遠くから撃ちまくれば何も怖くない。そこはこの作品最大の矛盾というか、ミスの一つでもあった。
今回はそれをうまくカバーするための新兵器が登場した。ワイヤーを発射させて戦車に当てて引きずられる、そのワイヤーが絡まり距離が短くなってくることで、戦車に簡単に辿り着けるというのは非常にうまいアイディアだ。
またその技術を『不思議な力』で説明することなく、きっちりと構造やその手順などを含めて説明することで説得感が増している。これは他のシーンでも同じで、この巻でいえばアインシュス・ゲヴェーアなどはトンデモ武器として非常に面白い存在だ。
作者のこの能力はそういった戦闘、兵器関連でも発揮されており、街の階級差別の問題や各国家の情勢、科学の進歩といった点においても非常に深みを増すものとして機能しており、長期連載においてこれだけの深さを作り出せるのは脱帽である。
細かいことのようだがオーランド伍長が「8回治してくれ」というのは敵戦車が8輌だから8回と書いた単純なミスの可能性もあるが、それが帰ってきてからの8回目とする演出には唸った。もちろん初めからそこまで考慮している可能性も大いにあるが、このセリフが今まで悪者のように扱われていたミュゼの深掘りと人間性を垣間見せてくれるなどというのは、非常にうまい演出となっている。
問題があるとすれば、今回のテロ編でもそうだがあまりに細かすぎることだろうか。テロリストの心情や、一人一人のキャラを深掘りすることでテンポが失われてしまっているが、私はこういった無駄な登場人物を一人も出さない作品が大好きなので、是非ともこのまま突き進んで欲しい。
2 20巻の魅力
この巻で一番オイシイところを持っていったのは何と言ってもブランバルド大佐だろう。
今までアリスの姉関連の、半ばギャグのような場面でしか登場しなかったためそこまで有能な人物だと思えなかったが、この巻においてはその有能な部分どころか、魅力的な指導者であると見せつけてくれた。
例えばその魅力は以下のセリフに全て集約される。
「悪魔に乗っ取られた住み処をッ 市民の思い出が詰まった帰るべき場所を
助けが来ると信じている 生存者がいるかもしれない建物を……
全車全力を以てーー 破壊せよッ!!」
このセリフは月マガで読んでも痺れた……
多くの戦争作品はやはり生存者が存在している可能性を考慮し、必要最低限の犠牲に留めることを是とする。そのため、中には戦争中にも関わらず敵を倒すことを躊躇うどころか、非常に大変な戦いをしているにも関わらず誰一人殺していないなどという作品も数多く存在する。
もちろん物語の出来事であるし、大人の事情なども沢山あるのだろうが、私にはこのような描写は冷める部分が大きい。
ここまで拗れてしまったテロという現場において、必要最低限の犠牲に必要なのが、一般市民を見捨てることである場合も大いにありうるわけだ。この辺りはクリント・イーストウッドがアメリカン・スナイパーやグラン・トリノで描いている部分でもあるが、ここを直視してごまかすことをしていない。
また上司がこのように判断してくれることにより、部下からすると上記のようなことを考慮する負担が減るし、何よりも「上司の命令だから」という口実ができる。これは戦場に良くある話ではあるが、悪癖となり残虐な行為に走らせる可能性もある。
だが命のやり取りをする戦場において、生きることのみに思考を回すことができるので、思考停止ではあるものの、最も生き残る選択肢となりうるだろう。
いやー、私の上司にも見習って欲しいものだ。あの人ときたら何かしようとすると「この可能性はないか、こうするとあっちがうまくいかないじゃないか」なんて言って全く仕事が先に……(以下略)
3 作品に込められた思想性
何よりもこの作品を支えているのがこの思想性の部分。今作もそれが十分に発揮されてくれた。
今回のテロ編において、非常に大きな部分を使って深掘りしているのが敵であるはずのテロリスト側である。彼らの行為そのものは確かに悪ではあるが、そこに至る過程というものは確かに悲惨なものだった。
特に私が感銘を受けたのは、この巻ではないが『被差別民族の中にも優遇されるものがいる』という点であった。私などは被差別民族と聞くと、その民族全体が差別を受けるものだと思っていたが、そうではない。むしろ、そうだったらまだ心の持ちようとしてマシだったが、そうでないからこそ余計に劣等感に苛まられてしまう。
この表現というのはまさしく見事としか言いようがない。(下町編の思想も非常に良かったのだが、この巻に関係ないため今回は書かない)
この巻で痺れたポイントは二つ。
以下のセリフに集約される。
『先祖が戦争に負けたという…自身に責のない迫害…それは確かに如何ともしがたい不幸かもしれんな
だがーーその不幸を汲んでやることはできんのだ
でないと人はーー不幸自慢を始める
略(是非とも読んでほしい部分ではあるが、長いため略す)
そんな推し測りの目がまた一つ お前達から『普通』を奪っていくのだろう……
まこといかんともしがたいな
だからこそ安心するがいい
機甲戦にそんなものはない
略
同情もない訝しみもない 生い立ちなど関係ない
ここにあるのはーー
鉄と火薬の理だけだ!!』
「キサマらの復讐心ッ 認めもしないが否定もせん
そんな陰湿なしがらみなど 機甲戦にはないッ
清廉潔白たる”鉄と火薬の力”で
いま… ころしてやる!」
ここは本当に美しいと思った……
私などはここで相手の境遇を知ったことで、その力を全力で発揮することができないという場面なども嫌いではないが、それはその相手を見下していることにもなりかねない。
それがこの戦場という場において、お互いを対等に扱うという宣言であるが、これはまさしく決闘の美学であり、どんな相手でも全力を尽くすという礼儀でもある。それまで差別されてきた相手に対する最大限の礼であり、例え貴族であろうと被差別民族であろうと戦闘になれば同じであるという戦場の理を描いている。
この美しさ、理をセリフに込めることで魅せるというのは、とんでも無い才能だ。
(この後のテロリストの対等の話も好き)
それからもう一つ面白い思想だったのが娯楽作家の妄想にも似たお話が、最新の軍事技術に抵触してしまったことだ。
新しい技術というのは創作から生まれることも多い。何かを作り出そうとしても、そもそもその発想がなければ不可能な話で、その発想の部分にあたるのが創作というのはよくある話でもある。
さすがに現代において同じようなことはないと思うが、単なる娯楽作家が幽閉されてしまうには十分な理由だろう。こういった細かい部分も非常にうまい。
これだけの中身を濃いことをしておきながら、ちょくちょくギャグもきっちり挟んでくるなど、読みやすさも考慮している。
欠点は刊行スピードの遅さであるが、是非とも作者にはこの作品を無事に完結させてほしい。
しかし、20巻でようやくテロが解決しそうな所まで来たが、まだまだ秘密結社やら何やらが残ってるんだよな……いつ終わるのかな?
短編小説やってます。