では、天気の子のより詳しい考察記事にいきましょう!
いやー、思ったより長くなった
カエルくん(以下カエル)
「ネタバレなしの感想パートを見たい方は以下の参照してください!」
主
「長くなるから、さっさとスタートしようか。
なお、この記事は基本的にネタバレありなので、ご了承ください!
あらすじのネタバレはしないですけれど、鑑賞していること前提の記事です」
新海監督の過去作品の流れ
理屈で考えるとボロボロの『天気の子』の物語
ここからはネタバレありで語っていきますが……まず、冷静に考えた時の感想としては?
正直、結構ボロボロな物語なんだよ
カエル「えっと……それがTwitterの短評で言う所の『苦しい』という部分なんだね……」
主「自分は過去の記事でも書いているけれど、新海誠作品は徐々に物語のレベルをあげているように感じてきた。
最初期の『彼女と彼女の猫』は猫のモノローグで進むけれど、それが独特の新海節を生み出してきたものの、あくまでも物語としては……なんというか、1つのストーリーではなかったんだよね。あくまでもダイジェスト的というか……それが味だったんだけれど。まぁ、個人制作の短編だから贅沢は言えないんだけど」
(こちらに収録されている作品です)
カエル「『ほしのこえ』以降は以下のようになっています」
- ほしのこえ……30分の短編作品、モノローグ多めで2人だけの世界
- 雲のむこう〜……長編も物語は2つの短編を繋げた形式
- 秒速5センチメートル……3つの短編を繋げた連作短編
- 星を追う子供……長編で1つの物語も粗は多い
- 言の葉の庭……短編で1つの物語で粗が少ない
- 君の名は。……長編で1つの物語でエンタメに特化している
主「簡単にいえば上記のようになるわけ。
なぜ『ほしのこえ』や『雲のむこう〜』が壮大な世界観なのに少人数の物語になったのかは、声優やキャラクターデザインなどが予算や技術の都合もあり、あまり多様化できない問題があった。あのお話の規模は映画の限られた時間では表現が難しい部分もある。
だから設定は壮大なのに物語は基本的に男女の関係で終わってしまう。
それが”セカイ系”と呼ばれた原因の1つだろう」
最初期は一人で作っていたからその工夫としては素晴らしいけれど、物語として見た時の評価はまた別だと
勘違いしないで欲しいのは『ほしのこえ』と『雲のむこう〜』は小規模チームで経験も浅い中の作品としたら十分な傑作だよ
主「自分は他のエンタメと……例えばディズニーやジブリと同じ枠組みで話をしているけれど、それは予算もたくさん使った高級料理店とコンビニのお菓子と新進気鋭の個人商店を比べているようなものだからね。
で、『秒速5センチメートル』では小規模な人間の関係性にスポットライトを浴びせて物語自体を日常的に、小さくした」
カエル「その次の『星を追う子供』は日本の伝統的なアニメの魅力を得るための挑戦だった、と監督も語っているよね。
うちはそこまで好きな作品ではないけれど、その挑戦は絶対必要だったというか……」
主「そこで手に入れてメソッドがあって、さらに映像美を昇華して1作の短編として非常に完成度の高い作品を生み出したのが『言の葉の庭』だと考えている。
そしてその後初の大規模公開の長編として『君の名は。』に着手したら、あとはご存知の通り」
君の名は。の挑戦〜映像面について〜
そして『星を追う子供』の挑戦は『君の名は。』に繋がってくるんだよね?
『君の名は。』って色々な挑戦が感じられるんだよね
カエル「ふむふむ……その挑戦って?」
主「これは自分が毎月やっている『おれなら』というTwitterでの映画生配信番組にもゲストで来てくれたフォロワーさんの意見でハッとしたんだけれどさ……『言の葉の庭』までリアルになってしまうと、アニメである必要があまりないというか、だったら実写でいいじゃんってことになりかねない」
カエル「あれ、その手の意見に納得するの?」
主「いや、自分は納得はしないし、アニメファンとして否定するよ?
どれほど写実的でもそれが描かれてアニメになった際には、時には現実を超える美しさを宿すことがある。
それは押井守監督の『イノセンス』もそうでさ、CGで作られた映像が時に現実以上に美しいんだよ」
カエル「だけれど、そのフォロワーさんの意見には賛同するんだ」
主「その人はアニメはあまり観ない方なんだけれど、その人にとってはやはり”現実のように精緻な作品はアニメである理由は薄い”という意見だと思う。それはそれで自分も同意する部分はあってさ……
ちょっと違うけれど、自分は現代のCG全盛のハリウッド大作などを見ると『いや、これならアニメでいいじゃん』って思っちゃうんだよ。公開前だけれど『ライオン・キング』は絶対にその視点で語ると思う。
アニメである技術的な必然性があるのかどうか? というのは重要なお話なんだ」
美しい映像は時に実写を超える
でも、それは『言の葉の庭』の話で、『君の名は。』にはどう繋がるの?」
単純にいえば、キャラクターのリアリティラインを下げたんだよね
主「もっと等身を低くしたりして、萌え要素も強くして”ザ・アニメキャラ”というデザインした。オタク向けと一般受けの中間とも言える、田中将賀の名デザインだ。
そして……特に”童貞臭い””オタクっぽい”なんて揶揄されることもあるけれど、過剰とまでに思えるくらいに可愛い女の子、男の子にして、美人なお姉さんがいて、挿入歌で盛り上げて、さらにパンチラや爆発のオマケ付き……っていうさ。さらに漫画的な表現……目が真っ白になって口元が歪んで企んでいるように笑うとか、そういう漫画的な表現がたくさん使われている。これってそれまでの新海作品にはなかったものなんだよ。
このようにキャラクターの動きをアニメ的なデフォルメされた表現などを取り入れていることで『言の葉の庭』よりもいわゆるアニメっぽい作品にはなっている。その一方で『君の名は。』の作画監督である安藤雅司の持ち味である、スタジオジブリでも発揮された日常的な芝居もたっぷりというバランスもいい。
ただし、そのバランスなどを考えたこともあって作家性が少なくなったとは言われるけれどね」
カエル「それを考えると今作も田中将賀がデザインだし、そのリアリティラインをキャラクター面で下げながらも背景はリアルにってやり方は同じようにも感じられるね」
比べると分かりやすい? が君の名は。の方がよりアニメ・漫画っぽいデザインに
君の名は。の挑戦〜物語について〜
では、いよいよ物語についてのお話になります!
君の名は。の物語って非常に優れていると思うんだよね
カエル「その優れているというのはどういう意味で?」
主「エンターテイメントして隙のないものを作ろうという意識を強く感じた。
どこで盛り上がりを作り、どこで谷場を作り、衝撃の展開と真実はどこで明かすのか……その全てが計算されていた。
……ちょっと話がずれるけれどさ、最近読んだ本に”意識レベル”について書かれていたんだよ。
簡単にいえば以下のようになっている」
意識レベル
- フェーズ0 睡眠時などで意識がない状態
- フェーズ1 疲労や睡眠不足などにより、意識が朦朧としている状態
- フェーズ2 通常の作業時など、リラックスした通常の状態
- フェーズ3 積極活動時(集中している時など)の状態←ベスト!
- フェーズ4 パニック状態により、冷静な思考・対応ができない状態
カエル「これがあるから、なるべくフェーズ3になってから作業をするとミスなどが少ない、ということだよね」
主「ただしフェーズ3は長く続かず、誰もがずっと集中していられる訳ではない。だから休憩を入れたり、切り替えたりしてうまくコントロールをする必要がある。
映画も同じでさ、なぜ山場、ダレ場を作るのかといえば、この意識フェイズをコントロールするためとも言える。
もっとも語りたいテーマなどがある時に意識を高めてもらい、その前や後には落ち着いてもらうためにダレ場や緩やかなシーンを作る」
カエル「そのお客さんの意識レベルをコントロールするためにあるのが脚本術ってことだね」
主「それでいうと『君の名は。』はよくできているんだよ。
もちろん細かいツッコミポイントやわかりづらいポイントはあるけれど、それがあまり目につかないようになっているし、うまく主演の2人の物語に集中してもらうための導線ができている。
そこを批判する声もあるようだけれど、このエンタメに特化した脚本術は本当に素晴らしいと感じるね」
”天気の子”の批判点
脚本構成の雑さ
そこまで考えた上で今作の批判ポイントを上げていきます
冷静に考えれば、今作の物語は設定・構成など本当に雑なんだ
カエル「それは流れがおかしいってこと?」
主「全部強引な力技になっていて、それが”苦しい”という言葉の理由。
例えば……なぜ帆高が家出をしたのかは一切語られないじゃない?
その原因が何になるのか……親が嫌いなのか、単純に東京に憧れがあったのか、その他の彼の個人的な事情は一切明らかにならない。
そこって物語の根底に関わる部分なんだけれどね」
カエル「そのあたりは想像の余地がありますよってことで……」
主「他にもさ、陽菜はなんでマクドナルドでバイトできていたの? 年齢をごまかすといってもあの大企業ならば年齢確認はされるでしょ? まあ、それもうまく誤魔化したか15歳の女子中学生なんでしょ?
あの家はどうやって借りているの? 母親がいなくなってもそのまま暮らしているのか……あれ、でも別に実家があるんでしょ? もしかして凪は実の姉弟じゃないの?
あの銃って本来なんだったの? 単なるキーアイテムで終わり?
警察官無能すぎない? あんなに簡単に倒されるほど無能ではないよ。
あんな大ごとになっているのに、年月が過ぎたとはいえ、なんで東京に暮らす人たとはそれが日常みたいになっているの? もっと大揉めしてもいいんじゃない?
そもそもあの大災害を起こした(止めなかった)とも言えるのに、亡くなった方などもたくさんいそうなのに、それに対して言及もなくノホホンとしていていいの?」
カエル「また細かいツッコミを……それらを想像して楽しむということはできないの?」
主「想像する余地というよりも、単に語っていないだけ。
そこいら辺が全てアバウト。
もちろん裏で色々な設定もあるのだろうし、あえてそうしなかったからこその魅力というのもある。でも、それにしても穴が多すぎる。
全部雰囲気でカバーしているし”作者の都合のための物語や設定”になってしまっている感がある」
物語の構成の不満
次に構成について話すというけれど……
これは言葉にするのが難しいんだよなぁ……
カエル「その明確に言葉にしにくい部分を言葉にしてみましょう」
主「なんていうかさ……ガタガタなんだよ、この物語って。
例えばハリウッドで使われていると言われる脚本構成で3幕構成とか13メソッドとかあるんだけれど、今作はそれも無視している印象がある。ちゃんと精査している訳ではないけれど……
なんていうんだろう……『君の名は。』が完全にコントロールされた、明るい日差しの中でサーフィンするのに適しているような一定のリズムで押し寄せる綺麗な波だとしたら、今作はグワングワンと揺れ動く荒波。
まるで嵐の時の高波みたいな物語構成。
それがものすごく歪なんだよ。
その物語構成や、そもそもの結末の歪さも監督も理解しているはず。
だってパンフレットに『オーソドックスな物語から外れる』と書いているからね」
カエル「でもきちんと盛り上げポイントとかはあったじゃない」
主「そこに繋がるロジックがないというか、伏線の貼り方も回収も雑だから全部ご都合主義に思えてしまうんだけれど、でもそれを感じさせないようにカバーしている点もある。
それもまた批判ポイントなんだけれど……楽曲の使い方なんだよね」
今作の乱暴? な楽曲の使い方
え、新海作品最大の魅力であり、いつもは褒める楽曲の使い方を問題視するの?
先にいって起きますと、自分はRAD大好きなファンです
カエル「そういえば今年大絶賛した『DAY AND NIGHT』もED曲は野田洋次郎の作詞作曲した楽曲だったもんね」
主「今回の楽曲でフューチャリングした三浦透子の歌声は……特に祝祭は清原果耶を思い出したなぁ……なんてことはどうでも良くて、やっぱりこの扱い方が違和感があった。
また君の名は。に戻るけれど、とても音楽の使い方がうまかったんだよね」
カエル「『君の名は。』の時の楽曲の使い方は簡単にまとめると以下のようになります」
- 夢灯篭…… OP
- 前前前世……2人の入れ替わり生活を教えるダイジェスト
- スパークル……1番の盛り上がりポイント
- なんでもないや……ED
主「こうやって見るとわかるけれど、きっちりとポイントを計算されて使われている。
物語の掴みとして……それこそ意識レベルをあげてもらうためのOP曲、ダイジェスト的に2人の距離感の縮まりを表現する前前前世、そして盛り上がりのスパークルに最後をしめる何でもないやに繋がる。
だけれど今作の場合は……極端なことをいえばノルマだから入れました! という感がいっぱいなんだよ」
- 風たちの声……帆高の東京の暮らしを伝えるための曲(ダイジェスト的)
- 祝祭……帆高と陽奈の関係性を深くするための曲(ダイジェスト的)
- 愛にできることは〜……盛り上がりの女装
- グランドエスケープ……盛り上がりの最高潮
- 大丈夫……盛り上がりの余韻を残しつつ落ち着かさせる
主「こうやってみると意味はあるんだけれど、やっぱりくどいよね。
特に最初の2曲は使い方がほぼ同じだし、後半3曲はさすがに使いすぎじゃない? って思った。普通に歌声にセリフをかぶせてきているし、それが気になったかなぁ」
カエル「ノルマだからってことはないだろうけれど、みんなそれを期待している部分は当然あるよね」
主「自分の中で効果的だと思ったのは2人の仲が進展する『祝祭』と盛り上がりのポイントである『グランドエスケープ』くらい。もちろんそれ以外も悪いとは言わないけれど……うまいかと言われるとなぁ。
もちろんRADの楽曲は文句なしに素晴らしいですよ、配信されているアルバムを買いましたから。
でもそこで使う意義が本当にあったのか疑問もあった」
カエル「それが乱暴なポイントなのね」
それでも否定できない感動
だけれど、それでも否定できないものがあるんだ
だって感動しちゃうんだからしょうがないじゃん!
カエル「……感動したんだね」
主「当たり前だよ!
あれだけ超絶技巧に凝ったアニメーション表現と音楽の一体感を味わった瞬間に、もう無条件降伏だよ!
新海作品にどハマりした人間なんだから当たり前じゃないか!」
カエル「……いや、そこまで熱弁されても」
主「特に『グランドエスケープ』の盛り上がるポイントは今年屈指の鳥肌だよ!
間違いなく2019年屈指の出来。
だからこそ評価に困る……」
カエル「あれ、そういえば夏の頃の大作アニメで同じようなことを語っていたことがなかったっけ?」
主「それこそ『未来のミライ』に似ている感覚。
自分の左脳は違和感を唱えてガンガン警鐘を鳴らしているのに、右脳は大絶賛してスタンディング・オペーションなの。
こんなのどうすればいんだよ! って話。
だから、それだけこの映画は色々な技術と……いってしまえば観客を扇動する力にあふれていて、表現としてのエネルギーがとてつもない」
カエル「公開後、こんなツイートもしています」
天気の子にて新海誠はとてつもないレベルに達した
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2019年7月21日
粗は山ほどあるし描くことも間違っているようにも受け取れるのに感動する
これは宮崎駿、庵野秀明、細田守クラスについに達したという証明かもしれない
主「これだけの演出力を獲得したことの証明する作品になったのではないか?そ
しかも、新海監督も自分がしたような批判なんて計算済みだと思う。そうでなければ、あのラストは……須賀のセリフは出てこないんだよ」
天気の子で発揮した新海誠の進化
君の名は。に対する新海監督自身のアンサー
その新海監督の大きな変化ってどこにあると思うの?
自分は君の名は。へのアンサーだと考えているんだよね
カエル「それはよく語られるよね」
主「今作って明らかに『君の名は。』に対する違和感やアンサーで作られているんですよ。
だって作中でサプライズがあるけれど、このEDはあのラストを……奇跡を起こしたこと自体を否定しているようにも受け取れる。
この映画においてあのラストをやるのであれば、あのサプライズはやるべきでなかったんだけれど……それでもなぜ行ったのか?
それは『君の名は。』という作品や、現象、言論に対するアンサーだからだろう」
カエル「あれだけ好き放題語られてしまうと、思うところもあるだろうしねぇ」
主「夏美の就活ネタだって同じでさ、『君の名は。』でみんなあっさりと就職が決まっていたことに対して反対の表現をしているわけだ。性格なども男の子の理想でありながらも、奥寺先輩とはまた違う……真逆とも言える女性像を出してきた。奥寺先輩はエレガントな大人の女だとしたら、夏美はエヴァでいえば葛城ミサトに近い描き方だよね。
ではなぜ『君の名は。』のアンサーを描いたのか? ということに対してはやっぱりパンフレットで新海監督がいいことを語っていて『社会全体があの頃より貧しくなっていて』とある。わずか3年の話でもあり、これに完全同意するかは個人的には難しいけれど、でも2016年とは何かが違うんだ」
例えば『さらざんまい』というテレビアニメを監督した幾原邦彦監督なんかは震災を忘れつつあるのではないか? ということを語っていたよね
自分の感覚としては2016年の『シン・ゴジラ』『君の名は。』『この世界の片隅に』などをキーポイントとしてすっかり変節してしまったのではないか? という思いもある
カエル「この辺りは明確に数字で出すことはできない感覚的な部分だね」
主「時代感覚としたら2016年前後(制作期間を考えるとその2014年ごろから2016年)と2019年前後では何かが違う気がする。
その感覚をどうやって捉えるのか? と考えた時に……やっぱり君の名は。を否定したというのは正しいと自分は考えている。
というか、新海監督の経歴を考えるとあの作品は祝いというより呪いだから。
あの呪いを物ともせずにいられるのは宮崎駿くらいなものだよ」
今までになかった須賀の存在
じゃあ、今作で重要なキャラクターは誰なの?
須賀の存在は大きかったのではないだろうか?
カエル「……須賀なんだ」
主「今までの新海作品に須賀の存在っていなかったような気がする。
一番近いのは『星を追う子ども』の森崎だけれど、須賀はあそこまで何かに目的を持っているわけではない。
森崎は異常な世界に取り憑かれた人だけれど、須賀は真逆。
常識の世界に生きる男なんだよ」
カエル「まあ、確かにね。それまでの新海作品ってあそこまで物語に関与するメインキャラクターで大人の男の人って森崎以外いなかったかも……」
主「『雲の向こう〜』ともちょっと違うよね。
で、これって……それっぽく語るならば”大人の自分(現実的な自分)”と”少年の自分(物語の理想の自分)”の対立であるのではないか? ということ」
えっと……新海監督は週刊少年マガジンでは『通り過ぎてしまった人の代表』として描いたとあるけれど……
そのまま語ったら面白くないでしょうが
主「この対立は誰にでもあると思うんだけれど、新海監督って自分はかなり理性的な人だと思っている。
それはインタビューや文章からも伝わってくる。
だけれどやっぱり……童貞マインドっていうか、少年の心がどこかにあって、その対立をしている。
それはクリエイターであれば当然で、庵野秀明や宮崎駿なんて露骨にあるものだ。庵野&宮崎ペアと違うのはそれを全開で行くけれど、新海監督は割と理性的に抑えることができる」
カエル「創作上のフェチズムなところだよね。それはクリエイターとして絶対必要なことだと思うけれど……」
主「多分、今の新海監督が重ねているのは須賀の方ではないかな?
それどころか、あの感覚……大人としての常識によって縛られている人はたくさんいると思う。それはそれで正解なんだけれど、今回は自分の中の少年……言うなれば”新海汁”の塊である穂高が暴走したこと、それがこの映画で1番やりたかったことだと思う」
電車の意味と走る帆高
今回も走るシーンはあるけれど、まさかの場所を走ったね
あれはびっくりだよねぇ
カエル「あれに対してはどう考えるの?」
主「まだ答えがまとまっていないけれど……メタファー論で語れば電車って運命などの象徴ということが多い。
『千と千尋の神隠し』では海? を超えて電車が行くけれど、三途の川を超えた先の運命=あの世の世界に行くという意味合いがあると受け取ることもできる。
でも本来電車って自分の力では動きを変えられいから人間の力ではどうしようもない運命に例える」
カエル「うちでは大絶賛した『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか?』も電車に乗るのが重要だけれど、主人公とヒロインの2人の運命が動き出したと言えるよね」
世間がなんと言おうが紛れもない2017年を代表する傑作アニメ映画!
主「一方で本作の場合は”電車が止まった後の物語”なんだよ。
例えば『秒速5センチメートル』は電車が止まったり動いたりを繰り返す。これは2人の運命が挫折しか変えている様子を描いているとも言える。
一方で、本作の場合は明確に止まってしまい2人の運命はこれ以上進まない、破綻してしまった。
なぜ2人が泊まるのがラブホテルなのか?
あれは……最後の晩餐ではないけれど、運命の終わりの前の宴だったとしか思えない。
童貞処女の10代半ばの少年少女には似つかわしくない場所だけれど、それは……現実の生々しい性を知る以前だからこそ、どこか非現実的な祭りの舞台設定に選ばれたのではないか?」
そして、その後に2人は離れ離れになってしまう=残酷な運命が始まるよね
だけれど、止まってしまった運命をさらに動かす必要があった。だから走ったんだ!
主「電車の走る線路を自分の足で走るというのは”自分の運命を自ら手に入れる、選ぶ”という行動にも思えてくる。
また線路から外れるというのは”運命やあるべき形から抗う”という意味合いにも受け取るのではないだろうか。
本作が物語の王道から外れていることからも、これはやっぱり線路を走ることに意義があったと考えるべきだ」
カエル「ふむふむ」
主「同時に新海作品において鉄道は特別な意味があるのは多くの人が知るだろけれど、そのある種の作家性の部分を、さらに自分の少年の心が疾走するということにも考えられる。
だからあのシーンから先っていうのは、自身の作家性などを全肯定しているんだよね。
『ウルセェ、世界なんざ知るかボケ! それでも俺は行くんだよ!』って話であって、だからこそ快感が生まれた」
物語としての祈り
でもさ、それだけ喧嘩を売っているような内容だったらもっと憤るんじゃないの?
だけれど、新海さんがいい人だっていう理由なんだけれどこの映画には祈りが込められている
カエル「うちではいつも語ることですが”物語とは願いであり、祈りである”ということだね」
主「『グランドエスケープ』『大丈夫』も賛歌なんですよ。
そんで多くのことに喧嘩を売っているけれど、でもバカにはしていない。
相手をリスペクトし、その上で喧嘩を売る。
だから須賀の『世界なんかどうせ狂ってるんだから』といってニヤリと笑う。常識人だったのに、大人としての理性的な存在だったのにそれが『世界は狂っている』と発言する。
そしてラストに『世界を変えたんだ』って喜ぶ。
狂っているといえば狂っているし、変な物語で王道とは大きく異なるんだけれど、でも間違いなくハッピーエンドである」
それが前回の記事でも語った”セカイ系の物語として”という部分にもつながってくるんだ……
セカイ系って普通は2人の恋愛を選ぶようだけれど、結果的には世界を救うことを選ぶの
主「もちろん全部が全部ではないにしろね。
『最終兵器彼女』とかさ。
この映画は監督の自意識の暴走を描いているわけでだけれど、100%自分の世界を認めて、狂ってしまった世界も認めて、全てを祝福した。
とても歪んでいる。
あまりにも大きくなりすぎてしまった前作の呪いは否定しつつ、しかし全ての意見をクリエイターとして肯定し、祝福している。
これは自分に言わせてもらえばものすごく正しい態度だ」
カエル「じゃあ、やっぱり大絶賛なんだね」
主「表現っていうのは自分の中にある異常性、あるいはモンスターと如何に立ち向かうのか? という部分があって、新海作品の場合は”新海汁”なんて言われるのがそれだった。それはクリエティブの核となるものだけれど、時に暴走するし、場合によっては悲劇にもつながるかもしれない自意識だ。
でもその暴走も認めた。
それと同時に監督の中の須賀……大人で自制的な自分がいて、それも認めた。
自身のクリエティブな面を、多くの作家のクリエティブな面をここまで過剰とも言えるほどに突き抜けて、褒めたたえる……だから自分は頭で否定しながらも、この映画に感動してしまったのかな」
まとめ
では、ようやくまとめです!
- 過去の新海作品とはまた違う味に満ちた作品
- ただし冷静に考えると相当作り方は雑
- しかし圧倒的な演出力・映像力などでカバー
- 自分の中の作家性を認めた壮大な賛歌に!
……いやー、苦しい記事になったな
カエル「この結論にたどり着くまでにああでもない、こうでもないと相当考えたよね……」
主「本当は何回も見てから語るべきだったんだろうけれど……ちょっと今はそんな気分でもなくて。
自分はEDスタッフロールを最後まで見て欲しいです。
何かあるわけではないけれど、多分、その意味合いが先週までとは大きく変わっているから。
本当はその目線で……不思議と色々と背負う運命に翻弄される監督の姿という点で語る面もあるんだけれど、それは今は違うと思うので、語りません。黙っていることができないのがうちなんだけれどね」
カエル「これだけの作品を是非劇場で見てください!」