物語る亀

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物語愛好者の雑文

通勤途中に小説を〜短編小説 『見えないもの』

今週のお題「卒業」


 三月に入ると一時期に比べて、寒さもだいぶ和らいできた。つい一月前は雨が降るたびに『雪が』と騒いでいた天気予報も、今は花粉と桜の開花予想に話題が集中している。 
 終業式も終わり、職員室とは別に用意された準備室に戻ると老齢の教師が一人で窓の外を見つめていた。その手に握られた紅茶のペットボトルが、あったか〜い小さいなものから500mlのものへと変わっていた。 

 


「おかえりなさい」 
 こちらを振り返り、生徒を注意する際に張り上げた喉が悲鳴をあげ、それでも構わず張り続けすっかり元に戻らなくなったしゃがれ声をかけた。 
「問題なく無事に終わりました」 
「あと一年ですか。少しは感慨がわいてきましたか?」 
「いや、まだ一年も頭を悩ませると思うと、憂鬱なものです」 
 一丁前にタバコや飲酒でしょっ引かれるだけだからまだマシだが、他クラスでは妊娠で自主退学した生徒もでた。大人しくしてくれとは思いつつも、過去の自分を振り返ると大きな声も出せない。 


 そんなものですよ、と呟いて椅子に腰掛ける。まだ桜が咲くには早いが、窓の外には梅の花が咲いていた。 
「……神話は好きですか?」 
自分の机にカバーをして置かれた本を眺めながら老教師は質問する。あまりにも唐突な言葉に、思わず頭に疑問符が浮かぶ。 
「神話、ですか。ゲームなどで伝説の武器やモンスターで名前はわかりますが、ギリシャだなんだというのは詳しくないです」 
「ああ、そうか、世界史教師はそちらを想像しますね。私が言っているのは日本神話です。古事記とか、日本書紀とか」 
 確かに国語教師、しかも古文を担当しているのだ、神話と言ったら古事記だろう。ただこちらは文系の教師ではあるものの、一般教養レベルならばわかるが古文が苦手で日本史まで嫌になり、世界史を専攻した身にはできれば触れたくない分野だった。 
 そんなこちらの思いなどわかるはずもなく、話は続く。 
「日本で一番偉い神様は誰か、ご存知ですか?」 
「そうですね……アマテラスといったら平凡すぎますか」 
「まあ、私なら100点にしませんね。テストなら間違いにしにくいですが」 
「ああ、日本作った……」 
「イザナギとイザナミですか。惜しいなぁ」 
 なんだこのじいさん、人の知識を試すのが教師とはいえ、趣味がいいとは思えないと自分のことを棚にあげて腹の中で愚痴をこぼす。 
 そんなこととはつゆ知らず、毒気を抜かれそうな笑顔でニコニコと話を続ける。 


「私の母親は淡路島出身でしてね、子供の時分からよく聞かされたものです。正解はね、アメノミナカヌシノカミです」 
アメ? 
 聞いたこともない名前に思わず顔をしかめてしまう。顔に出てしまったのだろう、老教師はやれやれとこぼした。 
「あなたの卒業した時にも同じ話をしたんですがね……」 
「いや、ためになる話が多かったもので……」 
 そんな一度言われたかわからんような話を逐一覚えているわけないだろう。 


「アメノミナカヌシノカミ、漢字で書いたら天之御中主神と書きますが、簡単に言ったら天の中央にいる神様、という意味です」 
「はあ。聞き馴染みはないですね」 
「そりゃそうでしょう。何せ一度しかでてきませんから」 
 は? と言葉を返すと、その顔を待っていたのだろう、先ほどとは違うニヤニヤした笑みを浮かべ始めた。 そんな顔するから生徒から嫌らしい奴なんて言われるんだぞ、と心中で呟く。 


「何もないところに突然生まれて、すぐにお隠れになる。高天原……天界ですね、そこを統治する神様ですから非常に偉い。宇宙や星の神様だとも言われています。なぜそれほどの神様が、一度しかでないかというと簡単に言えば、偉すぎるのです」 
 椅子から立ち上がり、再び窓の外を眺める。そこから見える通路には、グラウンドに向かう運動部員の姿が見えるだろう。 

 それを眺めるのも、もしかしたら今日が最後かもしれない。 

「私はね、この感覚が非常に日本的で好きなのです。大事なもの、偉いものは見えないし、表にはでてこない。だけど確実に存在する。例えば……心とかね」 


「定年になってね、時々思い返します。あの時叱り飛ばした子や、孤独に悩んだ子、過ちを犯した子……古い教師ですからね、手が出たこともある。私は正しいと思ったが、その子にとってそれが正しかったのか、間違いだったのか」 
手元に握ったペットボトルのキャップを外して一口飲み込むと、こちらにゆっくりと近づいてきて、やがて自分の後ろに立った。 


「いろいろなことがあって、いろいろな生徒がいました。結婚式に呼んでくれる子、すぐに音信不通になる子、同じ教師で再開する子……そして、夭折してしまった子。さすがにあなたのように大学に八年いた生徒は他に知りませんが」 
「はは、笑うしかありません」 
「私はこの学校という社会から卒業します。そして、あなたは残る。それが世の常とはいえ、寂しくないといえば、嘘になる」 

 しんみりした言葉が部屋を包み込んだ。自分はそっと立ち上がると、窓の外を眺める。野球部はダラダラとネットやボールを準備し、陸上部は女子だけがハードルを用意し、男子はじゃれあって遊んでいた。 
 顔を上げると赤や白に咲く梅の花が視界に飛び込んできた。そう、これもまためでたい色だ。 
 ……梅の花? そういえば…… 
「ああ、思い出しましたよ。自分の頃の卒業式には先生から『梅雪耐華麗』を教えていただきました。あれ、そういえばあの時母親は鹿児島出身だと……」 


 ガラリと戸が開いたかと思い振り返ると、その姿はすっかりと消えていた。先ほどまでと違って動きが早い。 
 たく、と一人息を吐くと、あの年齢の教師は何を読むのだろうと、ふいに目に入った本を開いてみる。 
 その表紙をめくって一ページ目にメモがあった。 


『来年もここで勤務するのでよろしくお願いします』 

 全く、食えない爺さんだ。 

  

  了

 

 

 

 

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