2015年冬期ではおそらく1番遅い終了となったのが、この昭和元禄落語心中である。
今回は本作をまとめて全体の構成や、感想、そして映画『祇園の姉妹』を引用しながらこの作品を紐解いていこう。
そして何より、2期決定!!
そりゃ、あんな形で終わったら2期をやらなきゃ俺戦エンドとあまり変わらないものになってしまうから当然といえば当然のことか?
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1 この作品の脚本構成
それでは私のブログ恒例の脚本構成を紐解いていきたい。
本作は少しばかり特殊な作り方をしている。今作の主役は誰かと問われると、おそらく菊比古だと誰もが答えるだろうが、1話のみに注目した場合はどう考えても与太郎が主役になっている。
このように1話において主役が交代する作品は過去にないわけでないが、作りとしては難しいものになる。今作でいえば1時間かけて作り上げた落語心中という物語の世界観と、与太郎というキャラクターの深掘りがこの過去編のスタートと主人公の交代によりほとんど無駄になってしまうからだ。
今作の脚本構成は以下の通り
1話 現代編(1時間のため実質2話)
2〜5話 修行編(弟子入りから二つ目まで)
6〜9話 円熟期(人気が出てくる〜別れまで)
10〜12話 田舎で暮らす助六との別れ
13話 エピローグ
このように変則的ではあるが、4話で1まとまりとした3幕構成ととして成立している。最後の序破急で言う所の急の部分は3話での構成になっているが、エピローグが別れの後を描いているため、現代に物語は移ったが実質は過去編のラストに組み込んでもいいだろう。
さらに細かく2話から9話まで見ていくと
2、3話 終戦まで
4、5話 菊比古の修行
6、7話 助六、菊比古、みよ吉の交流
8、9話 助六の野望とその終わり
となっており、4話構成の中でも1エピソードを2話にて一区切りしていることで飽きがこないような構造になっている。これは1話を1時間の実質2話の分量で作られているから、2話にて1つのエピソードという構成で初めから2幕目終了まで計算されていると言っていいだろう。
2 祇園の姉妹とみよ吉の人生
祇園の姉妹という古い映画がある。溝口健二監督作品で、戦前に撮られた白黒映画であり、あの小津安二郎が「俺には撮れないシャシン(当時は映画ではなく活動写真と呼ばれていた)だ」と絶賛したと言われている。
フィルムが戦争で焼失したこともあり、現代の人間が見ても面白いと思うかは難しいところではあるが、その当時の祇園という雅な世界の裏側を暴いたスキャンダラスな映画としての側面も持ち合わせており、当時の風情を知るにはいい作品でもある。
簡単にこの映画のあらすじを紹介すると、主人公は祇園で芸者をしている姉妹である。姉の方はよくしてくれた馴染みのお客が破産し、どうしようもなくなっても今までの恩があるからと必死に尽くしてくれる。妹は男なんて踏み台よ、と騙しながらお金をせびっていく。
しかし、妹はその裏切りに気がついた男とにひどい目に遭わされそうになり、なんとか逃げるも大怪我を負う。姉は「だから言ったのに、この世界は義理が大切よ」と諭すのだが、精一杯尽くしていた破産した客は結局妻の元へと帰っていってしまう。
義理を通しても、打算的に生きてもダメという現実に「うちらはどうすればいいんや」と呟いて映画は終わるのである。
このあらすじだけだと身も蓋もない話であるが、当時の芸者というのはそのような側面があったということだ。私は女性の社会進出や生き方を考える作品を語る際に、よく引き合いにこの映画を上げているが、この時代に比べれば現代は進歩したと言っていいだろう。
みよ吉という人間はこの作品で描かれていることを見れば、毒婦であり非常に厄介な存在である。
だが、この時代の女性像とみよ吉の人生を考えれば決してその行動が理解できないものでもないのだ。きっとこの仕事に就くということは家族から様々な仕打ちを受けてきただろうし、「愛いやつよ」と愛でられてもそれは男の一夜の優しさであって夜が明けたらみんなお終いな人生である。若い頃はまだまだ大丈夫と思っていても、歳を重ねるにつれ需要もなくなるだろうし、焦りも出てくる。
その苦悩は現代の結婚出来ない女性よりも深いものであることは想像に難くない。
そんな中で唯一見つけた理想の男である菊比古を翻弄し、誘惑したが自分方へ靡いてくれる様子はない。でも菊比古も悪いのは、みよ吉を否定しながらも、決定的描写はないがおそらくやってることはやってるはずで、それで「依存せずに自立しなさい」というのはあまりにも酷い。
「うちらはどうすればええんや」である。
愛した菊比古に振られたみよ吉と、愛した落語に捨てられた助六はくっつくが、助六が楽語をするということは「なぜ助六だけが元に戻れるのか」という激情に駆られてしまい、どんどん嫌いになっていく。娘すらも可愛く見えなくなる。
みよ吉も悪いところは確かにあるが、ではどうすれば良かったのかと問われると、私には答えが見えてこない。
その罪悪感や思いがあるからこそ、最終話の八雲の「女の人だって男と同じだけ自由だよ」のセリフにつながっていく。
3 師匠という存在
この問題の事の発端は全て先代八雲の器の小ささに起因しているのだが、この辺りもまた名跡と師匠と弟子の関係性によるものだしなぁ。
先代八雲と助六の喧嘩というのは確かに助六が悪いのだが、八雲の方にも助六という名前に過敏に反応するという潜在的に悪い点があった。それをどれほど後悔し、助六を許してやりたくても、師匠から弟子に許すということは道理に合わないから出来ないわけで、弟子が許しを願い、師匠が許すというのが筋である。
助六の性格上それができないというのが問題だが、その筋に縛られて余計にややこしく捻れてしまうというのもやはり師匠と弟子という関係性のせいだろう。こうしてみるとこの制度というものもしがらみが強すぎて、中々大変だよなぁなんて思ったり。
なぜ落語や歌舞伎なのど伝統芸能において名前が変わるのか、ご存じの方も多いだろうがとりあえず説明をしよう。
これは現代社会であれば、例えば中居正広という名前であればあの中居くんを思い出すし、高倉健であればあの健さんを思い出す。これは『名前は個人を表す』という意識の元に出来上がっている概念である。
だが、江戸時代など昔の日本においては『名前は社会的立場を表す』ものだった。その時代には個人という概念は希薄で、家という意識が非常に強かった。つまり『山田太郎』という個人ではなく、『山田家の太郎』という家が先に来て、その後に個人名が来るという構造である。
現代社会で考えるとおかしなこともたくさんあるが、その理由は潜在的に全体主義社会であったことに起因しているだろう。
ではこれを分かりやすくするために現代の人間の名前で例を出していく。
役者で非常に大きな存在の名人が出てくる。仮に名前を石原裕次郎としよう。石原裕次郎は多くの町人に愛されて、その実力が誰もが認める大スターになった。
だがある日、石原裕次郎が残念なことに亡くなってしまう。さあ大変だ、役者の世界だけでなく、石原裕次郎の名前を知っている町人達もみんな嘆いた。
そこに渡哲也という石原裕次郎に勝るとも劣らない役者がいたら、その渡哲也を石原裕次郎として襲名してもらえば、役者の世界でも町民達の中でも石原裕次郎という存在はまた輝き出すのである。
これが襲名制度の意味である。つまり個人というものが希薄な時代において、『名前というのは社会的ステータスや実力を表すもの』でもあるわけで、その名前を持つ人間というのはそれに負けないくらいの実力を持っているよという証拠でもある。
だから名跡というものは重いわけだ。
この名前の重みに先代八雲も、菊比古も助六も振り回されてきたわけだ。
最終話において与太郎が「人間なんてものは名前に合わせていくらでも変われますよぉ」というシーンがあるが、これでどれだけ八雲の心が軽くなったことか想像すると、中々面白いものがある。
というわけで長々と書いてきたが、2期も期待出来る作品だったと思う。演出面にもう少し頑張ってほしいかな、という思いはあるが、これ以上を望むのは贅沢だろうか?(私が汲み取れていないだけ?)
ここから先は私も原作を読んでいないので、原作を読まずに楽しみにしていきたいと思う。
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