久々に文芸映画を見たいなと思い、鑑賞したのが室生犀星原作の『蜜のあわれ』。室生犀星は『或る少女の死まで』を読んでいるのだが、特に印象には残っていないのでそこまで取り立てて思い入れの深い作家ではない。
文芸映画自体も太宰治原作の『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』以来なので映画館で見るのは何年ぶりだろうか?
では恒例の一言感想から。
いい意味で裏切られた映画
1 文芸映画のイメージをぶち壊してくれた
近年の文芸映画をあまり見ていないのでこれが普通なのかわかりかねるのだが、昭和の文芸映画を見ていた私からすると『退屈で眠くなるけど雰囲気がいい映画』というのが文芸映画に抱く印象だった。
そもそも文芸映画には一つ難しい部分がある。
それは純文学などの小説を映画にする意味とは何か? という命題が必ず突きつけられることだ。
これが例えば東野圭吾や伊坂幸太郎、有川浩原作であれば、映像化した際に派手な絵になったり、エンタメとして面白いものになるかもしれない。だが、文芸映画とは文学として完成している小説作品を映画化することにあり、その多くは映像化しても映えない地味な絵になってしまったり、退屈なものになってしまいがちであり、映画化する意味が感じられない作品があるということも事実である。
だが、本作はスタートから音楽や演出で退屈に感じないようにと工夫が凝らされていて、映画でなければできないことが大量に詰め込まれていた。
その典型例がダンスシーンである。
いきなり開始数分ほど過ぎた後で、二階堂ふみ演じる金魚が踊り始めるのだが、これが中々怪しい雰囲気を感じられて目に嬉しい。シルエットだけで見るとおかっぱのようなショートカットもあり、Perfumeのノッチのようにも見えるのだが、これがダンスを始めると音楽もあって妖艶な仕草が見て取れる。
また金魚に初登場シーンもソファーに寝っ転がって新潮を読んでいるのが、赤のドレスとすらりと伸びる美しい脚がセクシーなこともあってとにかく画面に映えるのである。それ以外でも中盤の襖を開けた先にある滝の描写など突然の画面転換も、映像だからこその表現になっており、単なる文芸映画として小説の内容を描き出そうというレベルから一歩先をいく表現を次々と繰り出して行く。
時々それがやりすぎて、ダサく感じるシーンもあるのだが(特に終盤の隕石描写はないでしょう。あれは幻想的を通り越してダサくなってる)全体的にはギリギリを攻めた映画的なシーンの連続になっていた。
2 大杉漣、そこを代われ!
『ヒミズ』にしろ『脳男』にしろオドロオドロシイ作品ばかりが続き、『私の男』も作者の桜庭一樹自体は好きなのであるがこの作品自体はあまり好きではないので、私は今作で初めて二階堂ふみの演技を見たのだが、多くの人が絶賛するように圧巻の存在感を放っていた。決して演技が上手いとは思わなかったのだが、これほどの画面越しに視線を惹きつける色気を醸し出す20代の女優というのも中々いないのではないだろうか。
本物の女優魂というものを感じたので、これは喰わず嫌いをしている場合ではなくヒミズなども見なければいけないかな、と思わせるくらいに目が離せない存在だったのだ。
その相手役は大杉漣なのであるが、なんと羨ましいこと!
二階堂ふみとの熱烈な濡れ場(と言っていいのかな?)や絡みがある上に、韓英恵演じる美しい弟子との絡みもあって、とにかく役得が過ぎるだろう。マジでそこを代われと思ってしまったほどだ。
真木よう子は『ゆれる』の時ほど妖艶さは影を潜め、今回は幽霊役ということでどことなく未練が残るような、美しすぎない役に徹していた印象がある。だが、金魚である二階堂ふみとの絡みというものは、これは中々美しいものがあって、興奮するというよりも崇高な美を映し出しているように感じてしまうほどだ。相変わらず体当たりの演技が多い女優であるが、その魅せ方も熟知しているなぁと感心してしまった。
あとは芥川役の高良健吾が想像以上に芥川に似ていて非常に驚いた。あのよく写真で見るボーズをしてみせると、現代に生き返ったようである。
役者に関しては特に不満は抱かないのではないだろうか?
3 時代設定の?
今作は室生犀星の作品の映像化ということで、私は何の予備知識を入れずに鑑賞したのであるが、この時代設定がよくわからなかった。
室生犀星を扱うということは大正から戦後までありうるわけで、いくら晩年の作品とはいえ、その時代設定も作家にリンクしているとは限らない。さらに言えば、先生が暮らしている家は日本家屋風でそれこそ明治から戦後までどの時代の家屋としてもおかしくないように思うのだが、街の人たちが着物姿が多かったりと、どことなく戦後の昭和というよりももっと前の時代のように感じてしまった。
あとは戦後すぐという割には街並みが綺麗すぎるように思う。金沢だから東京ほど空襲がひどくはないのだろうが、ここまで綺麗すぎるとやはり違和感が拭えない。あとこれは文句というよりもイチャモンになるのだろうが、家の材質が明らかに最近のものだったり、引きの絵の時に真っ白なガスメーターが映ってしまったりと、どうにも画面から漂う時代感というものがチグハグな印象を受けてしまった。
その点、言葉使いはいかにも文芸映画らしく現代では誰も使わないような丁寧な言葉であり、特に二階堂ふみの台詞が所々台本を読んでいるだけのように聞こえるものもあるのだが、それが逆にこの特殊な世界観を支えていると思う。今回は不自然なほどに現実感のない会話や単語が次々と繰り出されるのだが、これがこの作品を読み解く1つの鍵になっている。
現代劇でこの会話をされると現実とのギャップに辟易とするのだが、一種の時代劇であるためにそこまで気にならなくて、ここは良かった。でも時代感という意味では、それがより古風な雰囲気にしてしまっているのかも。
4 作家の妄想
ではそう言った言葉使いをする必要がなぜあったのかといえば、それはこの作品が終始作家の妄想で成り立っているからだろう。
二階堂ふみ演じる金魚というのは、現実にはただの金魚でしかない。それを自分の頭の中で擬人化して、理想の女性像に磨き上げて妄想しているだけにすぎないのだ。
男は80になっても性欲があると作家は言っていたし、おそらくあの作家自身はそうなのかもしれないが、若くて美しい愛人を作ったところでもう既に勃ちははしないのである。そうなるとその性欲が行き着く先というものがどこにもなく、結局が自分の想像の中の理想の女性像にぶつけるしかない。
その存在こそが金魚だった。
この作品で1番圧巻のシーンは芥川との会話シーンであるのだが、文学的な死を遂げた芥川と、ダラダラと生き残って一生書き続けた室生犀星の対比のシーンというのは非常に考えさせられるものがあった。確かに芥川って人気絶頂で作品も評価されてあとは落ちるだけの1番死ぬのにいい時期に自殺したよなぁ、と現代でいえば尾崎豊のような死に方であるが、私などは最後の最後まで死ぬ間際まで書き続けた室生犀星の方に好感がもてるのである。
このあたりは太宰にしろ三島にしろ、いい時期に自殺した作家というものがやはり人々の記憶に強く残り、長年書き続けた多作の作家というものは緩やかに人気が落ちて忘れられるものであるが、作家として書き続けたということに関してはもっと評価されていいとすら思っている。
戦後無頼派を代表する3人が私は大好きであるが、織田作之助は早すぎたし、坂口安吾は遅すぎて、太宰治が死ぬ時期としてはちょうど良かった。だけど、私が1番好きなのは坂口安吾で、殆ど自殺のような生活を送り続けはしたけれども、どれ程苦しくても書き続けたその気概というものは非常に強く尊敬する。
芥川と室生犀星の会話というものはどうにも芥川の方が余裕綽々である種の勝ちのようにも見えるのだけれども、結局芥川は勝ち逃げしただけでリングに立ち続けたのは室生犀星の方であるのだから、そこまで悔やむ必要はないだろうと思ったり。
ここの会話シーンは非常に濃密で熱量があって、ここで映画が終わっていたら私はとんでもない日本映画を見た! と大絶賛していただろう。
それだけに4章で少し息切れしてしまった感があるのが残念だった。
とは言っても今作品は非常に冒険心に満ちたいい作品であったし、面白かったので是非ともお勧めしたい一本。邦画では久々の大当たりだったかな。
私も室生犀星のデビュー作しか読んだことがなかったので、晩年の作品も含めて読んでみたい。
蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)
- 作者: 室生犀星,久保忠夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1993/04/28
- メディア: 文庫
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