物語る亀

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物語愛好者の雑文

物語の作り方〜言葉の本質とは何か?〜

 物語の作り方、この記事で当ブログ記事は100を超える結果になりました。

 日頃の皆さまの御愛好に深く感謝いたします。

 

 今回は、物語の作り方の中でも大切な、小説や漫画、映画など多くの表現に活用できる『言葉の本質とは何か?』ということを書いていく。

 先週の記事はこちら

 

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 1 言葉は理解し合うためにある?

 私が小学生の頃の話であるがいつの時代もこの年頃の少年少女というのは変わりなく、やはりヤンチャな生徒が多かったので、何かあれば喧嘩があるし、時には暴力沙汰に発展した。とは言っても所詮は小学生の喧嘩であり、胸ぐら掴んで何発か殴ろうものならばすぐに教師が飛んできて取り押さえられ隣の特別教室へと連行されていった。

 教師たちは生徒全員に向かって「なぜお前たちは喧嘩をするのか?」ということをコンコンと説教をするわけである。

 その時の教師の決め台詞はいつも決まっていた。

 

「お前たち、何のために言葉があるんだ! もっと話し合え! 動物じゃないんだ!」

 

 その時は「ああ、なるほどな」なんて思いながら納得し、シュンとなっていた記憶があるのだが、今にして思うと「その意見は間違っているのではないだろうか?」という疑問にかられることがある。

 

 私にはどう考えたところで言葉とは物事を伝える、理解し合うということに関して用いるには不便なもののように感じて仕方がない。

 

 確かに言葉というものは手軽で事前準備も必要なく伝えることができるので毎日我々は使っている。だが、考えてみると言葉を使った伝達というものは効率がいいとは決して言えない。

 例えば企業や学校、学会でプレゼンをするとき叩き込まれるのが、わかりやすく伝えろということである。その際にパワーポイントの使い方などでよく言われるのが「パワーポイントは原稿ではない」ということだ。

 パワーポイントに書かれたことを読み上げるだけのプレゼンなどというのは営業や研究者、発表者としてはあまり良くないとされている。

 

 ではどうやってわかりやすく伝えるのかといえば、パワーポイントなどにビッシリと文字を書いて、レジュメを全員に公開するという方法は基本的に避ける。大体がデータをグラフや図、絵などで見せて、その補完として言葉を使っている。

 言葉だけの説明ではわかりづらいということでも、グラフや絵を見せることによって理解してもらえるということは良くある。また、言葉による説明では時に誤解や勘違いなども生じるケースがあるが、絵などで表示した場合はその可能性は減るものである。

 ブログも同じだ。文字だけで書かれたブログというのはあまりいいブログとは言えず、絵や写真が入っていた方が読者が見やすいいいブログと言われている。(つまり当ブログはその意味ではあまりいいブログではない)

 

 言葉というものに高い伝達能力が備わっているのであれば、言葉を発するだけで諍いというものは無くなる。何せ、話し合えば分かるはずだから。

 でも話し合ったても分かり合えないのが現実だ。だから裁判があるし、戦争がある。

 では言葉の本質ってなんなのだろうか?

 

 

2 言葉の本質とは共感性である

 いきなり答えを言ってしまったが、私は言葉の本質とは共感性にあると思っている。

 まずは下の短歌をよんでほしい。

 

 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 

 これは俵万智の代表的な短歌であるが、この短歌に込められた思いというものはなんだろうか? それは「寒いね」と話しかけた時に、隣にいる誰かが「寒いね」と返事をしてくれた共感性にあるのではないだろうか

 例えばこの短歌を弄ってこんなものだったらどうだろう?

 

 「寒いね」と話しかければ「暑いよ」と答える人のいる冷たさよ

 

 身も蓋もない短歌ではあるものの、意味はお分かり頂けると思う。この短歌が語りかけてくるのは、自分の言ったことに天の邪鬼な回答をする人がいるという寂しさでも、自分の感覚がおかしいのかなという疑問でもない。「寒いね」と話しかけた時に「暑いよ」と共感することができなかったという寂しさがこの短歌を残念なものにしている。

 

 最近発表された記事によるとIQが高いと孤独感が増してしまうという研究結果が出たらしい。IQで頭の良さを語ることの是非はあると思うが、これも共感性ということで考えればわかる話だ。

 

 例えば「ハンバーグ美味しいね」という言葉は共感性が強い。これは美味しいか不味いかという2択の話であり、非常に単純で解りやすい言葉だからだ。

 だが「このハンバーグはデミグラスソースが美味しく作られていて、よく合っているね」とか、さらに「このハンバーグはA5ランクの肉を使っていて、玉ねぎも国産のブランド物を合わせているいるし、デミグラスソースも……」とか、さらにさらに「このハンバーグは60℃付近のタンパク質を変性させながらも、焦げなどの変性があまり起こらなくい温度でじっくりと熱を入れていることで……」などと言い始めた日にはほとんどの人が理解してくれないだろう。

 

 このように言葉に込める意味が深ければ深いほど、そこから共感性というものは少なくなってしまう。込められている言葉の意味は真実であるし、本当に言葉に人と理解し合える能力があれば話が深いものが広く受け入れられるはずであるが、実際はそうなっていない。

 だからこそ、頭のいい人の意見というものはあまり受け入れられることはないが、「ウェーイ」なんてやっている連中の「やばくね?」という発言等は多くの人に簡単に理解できるため、いろいろな人とコミュニケーションが取れている。なので上記のようなIQ の高い人ほど孤独になるという理屈である。

 その事象を見ても言葉というものの本質が共感であるということがわかるだろう。

 

3 男女差における言葉を扱う能力

 現代において男女共同参画であったり、女性の社会進出を進めようと言われているが、かつて文芸は女性が読むものではないと言われた時代であっても樋口一葉や岡本かの子、尾崎翠、林芙美子、幸田文など数々の女性作家が生まれている。おそらく現代の小説家の男女比で考えても、5対5か、もしかしたら女性の方が多いかもしれない。また、文芸の世界において女性をさらに進出させようという動きはないだろう。そんなことをする必要もないぐらい女性が進出しているということだ。

 

 もともと文章においては女性の方が得意な人が多いというが、それは男性が解決を目的とするように物事を考えるのに対して、女性は共感性を重視するためだと思われる。

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 このコピペは私も大好きなものである。この会話をどう解釈するかは人によるが、私は『男性は車を直したい』という解決であり、女性は『話を聞いてほしい、共感してほしい』という風に考える。

 

 男性 車が壊れた→車を修理しよう

 

 という至極単純でわかりやすい発想であるのに対して

 

 女性 車が壊れた→男性に迎えに来て欲しい→回りくどく話す

 

 という会話になっている。これが仮に男性的発想であれば、簡単に「車壊れたから迎えに来てよ」の一言で解決へと向かうのであるが、この場合は相手に「迎えに行こうか?」と言ってもらえるように誘導しようとしている。

 なぜこんなに回りくどい話し方をするのかというと、「それは大変だね、迎えに行こうか?」という共感のセリフが欲しいからに他ならないだろう。

 

 脳の構造までは専門外なのでわからないが、私は「女性が言葉を扱うのが上手い」というよりも「言葉が女性の思考法に合っていた」という方が適切なように思うのだ。

 

 なので、これから先、小説だったり、会社でプレゼンや研究発表などがある場合には、相手に理解してもらおうという言葉を使うのではなく。相手に共感してもらおうという言葉を選択していった方が、より効率的に話が進むのではないだろうか?

 

 この問題は考え始めるといくらでも話が続いてしまうため、今回の物語の作り方はここまで。

 

 物語講座のまとめもあります。

 

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