ここ最近発売された15巻にて一つの区切りがついたので、8巻から15巻まで(竹の華入店から弘前大会まで)を読み直した。その感想や気になった部分をあげていく。
絵が上手いだけでなく、これだけ内容の深い世界観を描き出せるから本作はやはり素晴らしい作品だ。こういった作品が続々と出てくるから、漫画という文化は本当にとんでもないポテンシャルを秘めていると感じる。
芸人は心技体で高尚であれ だけど 高みから見下ろすものんじゃない
娯楽に消化してこそ一人前さね
1 高校編からの『卒業』
ましろのおとという作品はスタート時、雪が上京し、高校に入学して三味線部を学校で立ち上げるところから始まった。8巻にて三味線の高校生大会を新設という荒技の末、8巻にて一つの流れが終了した。
そこから学校を辞めて、プロの世界に、民謡居酒屋に入るというのは8巻を読み終えた当時の私にとっては迷走の始まりでしかないように感じていた。
だが今回、この部分を読み返してみて、それが間違いであるということがよくわかった。
13巻から始まる弘前大会を見るに、雪が望んでいた世界というのは言葉は悪いが高校生の『遊びの延長線』にある世界ではない。プロであり、その深淵の世界を全人生を賭けてでも表現したいというものだった。
だが高校生を続けていたら見えてくる世界も狭すぎる。雪は高校生として天才であっても、プロとしてはまだまだ未熟なのだ。そのために退学というのは少しやりすぎなように思っていたが、それほどの覚悟の前には高校など何の意味もない。それならば、確かに決断は早い方がいいわけで、この展開は本当に思い切ったものではあったが、今にしてみると大正解であった。
母である梅子は『娯楽としての音』ではなく『高尚な玄人の音』であって欲しいと思っていたのだろう。それはライバルの一人である田沼舞も同じで「あいつは唯一無二の音ば……鳴らさねば……」と語っている通り、みんな雪の中にいる松五郎の幻想を追っている。だがそれは最早雪の望むものではなかった。
芸の道 面白いわね 面白いけど難しい 幸が不幸で不幸が幸で
2 上手・下手より好き・嫌い
この部分は自分もよく分かる部分であって、とんでもなく上手い=愛されるというものではない。もちろんその超絶技巧はその良さがわかる人には多いに受け入れられるだろうが、それはあくまでも目の肥えた玄人向けのものであり、素人に受け入れられるのは非常に難しいものがあるだろう。
だが、この好き、嫌いというのがまた難しいもので、それは結局のところ受け手の勝手な主観でしかない。愛されようと努力しても、その努力が透けて見えてしまうと逆にあざと過ぎて嫌われてしまうものだ。
雪はそれまで松五郎の『天才の世界』の住人だった。それは『上手いが故に愛される』世界でもあって、『上手ければそれでいい』世界だったのかもしれない。だが目の肥えてない素人を相手にする、大衆演芸では愛嬌のような完璧から外れるというものも必要な部分もあって、その呼吸がわからなくて迷っていく。ここから長い雪の迷走が始まっていくのだが、この一つの答えにたどり着くために唄付け(伴奏)を始めていくことにする。
だが、それは荊の道でもあった。
マニは梅子の唄に合わせない雪の伴奏が気に入ったが、そこには相手を思いやる気持ちが入っていなかった。今まで一人で奏でること以外に弾いてこなかったのだ、それを責めるのは少し酷かもしれない。
だがプロの世界で、大衆演芸でやっていこうとするのでは、それではダメだった。大衆に愛される音を奏でなければいけないのに、そこに完璧な『自分の演奏』をしてしまったら、それを聞くだけの聴衆や玄人はともかく、唄う人たちはついていけない。そんな自己中心の弾き方では、歌い手も引き手もダメにするだけのものだった。
おばさん なめられんなぁ
3 東ノ宮杯での激闘と成長
自分の壁にぶつかりながらも、大河やマニと共に成長していく雪。
相棒のマニが目標とするのが前年度チャンピオンの壬生悠理。
「悔しいけど 壬生悠理はプロだ 精神や根性が---プロだ」
マニもそう認めるほどの相手は、実力もさることながらその精神面もプロとして申し分ない人物だった。成宮あやこもそうだが、本当にトップクラスの闘いとなると、その技術的な差はほとんどないと言ってもいい。
あったとしてもそれはプロとアマのような大きな違いではなく、ほんの僅かなもので、その僅かな差を埋めることに表現者は四苦八苦して、日々努力を重ねるものである。(これは見習わないといかんなぁ)
最後に勝敗を分けるのが技術ではないとしたら、それはやはり精神や体力といったことになっていくのだろう。僅かな技術の差だとしても、やはり強靭な精神や頑強な体力によって培われたものだ。
東ノ宮杯の見せ場はやはり雪とマニの共闘だろうが、私はやはり成宮あやこの挑戦を推したい。
彼女は精神も悠理に劣らずプロであり、技術も磨いてきた。
「年なんて関係が だって 経験を得れば より深みが増すちゃ
それが 芸の世界やちゃ」
このセリフと裏腹に、圧倒的なパフォーマンスで魅せてくる成宮あやこに唯一足りなかったものが『若さ』だった。若さがある幸福は経験がない不幸であり、経験がある幸福は若さのない不幸である。
この辺りは非常に残酷なお話ではあるけれども、なんとなく納得してしまう悲しさがある。日本一のために20年も周囲の声も意に介さず、ひたすらに求め続けたその最後に声が持たなかった。この辺りは私も考えさせられるものがあって、今はまだ若いからひたすらにガムシャラに突っ走っていけるけれども、では50、60と歳を重ねていっても諦めきれない目標が果たしてできるだろうか?
そして、それが見つけられたとしてもそれは幸なのか不幸なのか。
単純に考えれば追い続けられることは幸福なのかもしれないが、それに縛られて、しかも時間に裏切られた不幸というものは、成宮あやこの必死の努力をもあざ笑うかのような結果になってしまった。
「若さ以外 何が足りんか 教えられ(教えてよ)」
この言葉の重みというものは、若い雪たちの物語では紡ぎ出せないものだ。
祖に還れ 祖に還ろう
4 スランプに陥る雪
唄弾きを終えた雪を待っていたのは、曲が弾けなくなってしまうというスランプだった。
色々な経験をして、いろんな音を知っていくたびに目標だった松五郎の音はどんどん遠くなっていく。今まで小さい世界で、己と松五郎の二つの世界しか知らなかった雪にしてみれば、これほどの広い世界と音を知ってしまった戸惑いもあった。
目が肥える、耳が肥えるというのは音や作品を見る、聴くだけでなく、実感として弾かないと、やってみないとわからないこともたくさんある。逆に小さな世界にいると、自分の完成度ばかりしか目に入らないから、それで満足してしまうケースというのはよくある話だ。
ただ、そのスランプは間違いなく成長である。今まで見えていなかった世界が見えるというのは、それだけ広がって、さらに深まったということだ。その深さの前に戸惑って考え込んでしまった。
そんな雪を救ったのは東京で出会ったユナだった。
ユナの何が雪を救ったのか? それは恋愛というのは簡単なのだろうが、今回はその答えは排除したい。
雪を救ったのは『弾くことが好き』という気持ちだった。
頭で考えても仕方ないこともたくさんあって、グチャグチャになってしまうのであれば、とにかく手を動かしてみるといい。それで何が変わるとか、上手くとか、スランプがどうということではなく、やっぱりスタートは『好き』から始まる。
弾きたいから弾く。
やりたいからやる。
それはとても単純だが、単純故に強い思いであり、上手いとか、下手とかいう以前に最も大切なものだと私は考える。
結局は表現なんてものは自分のためにやるものだろうから。
祖に還れ、祖に還ろう。
その祖というものは『好き』『やりたい』という気持ちのことでもある。
似たようなことはこの記事でも書いています。
そして弘前大会に話は続くのだが、それは過去にあげた15巻の感想を読んでほしい。
5 気になるこの先は?
さて、脈略もない感想まとめ記事を書いてきたが、(乱文になってしまったかなぁ。ましろのおとは非常に好きな作品だけど、言葉にするのが難しい)それではこの先はどうなるのだろうか?
私は正直15巻で最終巻としても綺麗に片がつくし、悪くないと思っていたが、さらに新展開を迎えてきた。
おそらく雪の父親の話やら、神木の師匠のことも入ってくるのだろうが、ここから先はどうなるのか予想ができない。できればもう少し梶などを活躍する場も与えて欲しいが、さてどうなるか。
さすがに学校に帰ることはないかなぁ。
今更戻ってもやることないし。
ましろのおと コミック 1-14巻セット (講談社コミックス月刊マガジン)
- 作者: 羅川真里茂
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/08/17
- メディア: コミック
- この商品を含むブログを見る