今回は同性愛とキリスト教社会について語った”ある少年の告白”の感想記事となります!
今回は、もしかしたら反感を買う記事になるかもしれない
カエルくん(以下カエル)
「同性愛矯正施設の問題だから、下手なことを言えないよね……」
主
「どうしても記事も慎重な意見になってしまうかなぁ」
主「この映画を語る際にはアメリカ南部の状況なども大事になってくる。
この記事ではそのあたりも含めながら語っていくとしよう」
カエル「それでは、早速ですが記事のスタートです!」
感想に入る前に
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では、この記事の感想に入る前に、まずは自身の立ち位置について語っておくということだけれど……
自分は同性愛そのものに対して、特に問題視することはないです
カエル「えっと……まず、なんでそれを改めて表明したの?」
主「……この映画を語る際にはそのスタンスが大きな問題となると感じているんだよ。
自分は結婚という家族制度や税制優遇などについては議論の余地があるとはいえ、同性愛自体は特に問題がないと考えている。
それどころか、恋愛の中でタブーとされているものや嫌悪感を抱かれやすいもの……例えば歳の差恋愛、教師と生徒などの恋愛、不倫、近親恋愛なども双方(不倫の場合は夫婦とその相手や相手の配偶者も含む)が合意の元にあり、お互いが望む形であれば問題がないと考えている」
カエル「え、ちょっと待って。同性愛とそれらの……倫理的に問題がある恋愛を同一に語るの?」
主「はっきりと言ってしまえば、自分にとっては恋愛なんてどうでもいいです。
誰が誰に恋しようが、誰とくっつこうがどうでもいい。同性だろうが、近親だろうが、既婚者だろうがなんでもいいよってスタンス。
なぜこんなことを表明したかといえば『同性愛はOKだけれど近親愛や不倫はダメ』とするならば、その線引きはどこにあるのかを論じる必要がある。
そして、自分にはその答えは浮かばなかった。ちなみに、家族制度や結婚制度はまた分けるよ。あくまでも、恋愛に対する考え方だ」
カエル「……なんでそんな考えを最初に述べるの?」
主「だってさ、この映画の中の『同性愛は治さなくてはいけない』という思想に反する人に聞きたい。
”なぜ同性愛は認めるのに、不倫や近親相姦は認めないんですか?”と。
そこに倫理観で否定する答えを出すのであれば、同性愛は倫理的にOKとする根拠を示さなければいけないとすら考える」
カエル「えっと、近親相姦は遺伝子異常の可能性が指摘されているよね?」
主「それはそれで難しい話でさ、病気や遺伝子のせいにしてマイノリティを迫害する例なんて優生思想などのようにいくらでもある。エイズ問題を理由に同性愛を非難する声がある時代もあったじゃない
科学が恋愛関係に反対する理由になる場合は、注意が必要と考える。そもそも、科学と恋愛はまた別問題だし」
”同性愛”だから見えづらくなる嫌悪感
なかなか過激な始まりとなってしまったけれど、この嫌悪感ってどういうこと?
この映画は日本における”同性愛への嫌悪感=悪”の視点で見ると見失うものがあるのでは? という懸念だよ
主「現状、日本では様々な議論はありつつも同性愛を受け入れる方向へとなってきている。それについては、まだまだ改善する余地は多いにあるけれど、年々受け入れる方向になっているように感じられる。
それは自分にとっては好ましい変化である一方で、それに対して気持ち悪いという感覚を持つ人もまだ一定数いるというのも事実である」
カエル「そういうマイノリティに対して理解がない人を揶揄し、叩く風潮だってあるよね」
主「だけれど、それが同性愛ではなく近親愛や不倫だとしたら?
教師と生徒の歳の差がある恋愛などの”モラル”に反する恋愛を気持ち悪いと思い、迫害するのではないでしょうか?
同性愛者に対して『気持ち悪い!』という行為と……例えば高橋ジョージに対して『気持ち悪い!』という行為、あるいは乙武洋匡の不倫に『気持ち悪い』という行為にどれだけの差があるんですかね?」
カエル「……結局は個人のモラルと価値観による恋愛に対する反応という意味では変わらないのかも」
主「あなたの家族が近親愛、あるいはいい歳した大人が10代の若い子に入れあげているとしましょう。
犯罪ではないけれど、施設に入れて矯正したいと思わないと言いきれますか?
18歳の子と60代の人が恋愛をしていても法的に何ら問題はない。それは近親愛、不倫もそれ自体を裁く法律はないといのは同性愛や異性愛と同じだ。
先にも語ったけれど、双方や関係者の合意の上で、というのは条件となるけれどね」
日本にもある”矯正施設”
う〜ん……でもさ、日本ではこのような矯正施設ってないわけだし……
まさか! 日本だって同性愛でないだけで、十分ひどい矯正施設はあるよ!
主「顕著なのは引きこもりだよ。
v別に引きこもり自体は犯罪でもないけれど、世間や親が困っている。だから無理矢理引きこもっている子供を連れ出して、施設に連れて行き自立支援の看板を掲げて監禁のような真似をする施設もある。
また、不良とされる子供達を集めて同じような暴力的なやり方で”更生”させようという施設はある。
精神的な問題に対して、暴力的な手法により”更生”を促そうという施設なんてたくさんあり、それが問題になっている。
もちろん、それ以外の良心的な医者やカウンセラーなどもたくさんいることは間違いないけれどね」
カエル「……問題が”同性愛”ではないだけで、精神的なことを矯正しようという思惑は一緒なんだね」
主「さらに困るのは、この施設の人や親などの保護者は”本気でこの子のためを思ってやっている”ことにある。
それはこの映画も一緒で、この映画に出てくる人たちは悪意を持っているわけではない……と自分は思っている。本気で同性愛を治すべきだと考えて行動しているし、そのために苦悩を強いてくる。
だからこそ余計にタチが悪い。
自分が語りたいのは『”同性愛”を矯正しようとするなんてひどい!』ではなく『精神的な問題を暴力的な手段で解決しようとするなんてひどい!』という風に考えて欲しいってことなんだ。
そしてもしかしたら自分が持つ精神的な問題に対する偏見が、マイノリティの人々を無意識に追い詰めている可能性があることを考えてほしい。
我々は意識しないうちに、この施設の手助けをしているかもしれないんだ」
感想
では、ようやく本題の映画の感想に入ります
#ある少年の告白
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2019年4月20日
とても難しい…自分は登場人物全員の気持ちが何となくわかるために主人公可哀想!だけではない社会性を感じた
特に親子の対話はグッとくる今更生き方や信仰を変えられない父と、パーソナルな恋愛対象は変えられない息子の対立が胸にくる
派手さはなく若干退屈な部分もあるのが難点か pic.twitter.com/Oofmqle2Hy
とても難しい問題を突きつけられた……
カエル「感想に入る前にいろいろ語ったように、多くの思いが頭をよぎった映画なんだね……」
主「自分は本作に登場する人物の気持ちがなんとなくわかるし、誰も非難することができない。
そして、誰の味方もすることできない……それは主人公もそう。
仮に息子が同性愛者だった時、それに対してどのように向き合うのか……社会的な立場とかも考えてしまうかもしれない」
カエル「同性愛者が家族にいるということを恥だったり、そこまでは思わないけれど社会の中で居場所をなくすのでないかと思いなんとかして隠そうとする人はいるだろうね」
主「特にこれから語るけれど、今作で描かれたアーカンソー州はアメリカの中でも特殊な地域だ。
そこで生まれ育った家族がそのようになってしまうのは、しょうがないこととすら思うんだよ」
カエル「ちなみに、映画としてはどうだったの?」
主「う〜ん……個人的には微妙。
今作では時系列が入れ替わるところがあるけれど、それも唐突な感があってついていくのに時間がかかったかなぁ。それと、やっぱり派手さはないから……レイトショーで見たけれど、それもあって結構退屈に感じるシーンもあったかなぁ。
見ている最中よりは、見終わった後にガツンと響く映画だろうね」
アーカンソー州について
原作の舞台となったアーカンソー州について語りましょうか
この映画を語る際に、ここを避けてはダメだろう
カエル「アーカンソー州はアメリカ南部に位置します。この州は”バイブルベルト”と呼ばれるキリスト教に熱心な保守派層が多い地域としても知られており、政治的にも保守的な共和党を支持する傾向が強い州でもあります。
以前『ブラック・クランズマン』の際に語った KKKが誕生したテネシー州のお隣でもあります」
主「この州を象徴するのが『アーカンソー州反進化論裁判』などのように科学と宗教の対立だ。
以前から語るようにアメリカというのは”神の国”であり、キリスト教徒、とりわけプロテスタントの教えが強い国でもある。この視点をなくしてアメリカを語ることはできないのだけれど、そこで抵触する科学の1つが進化論だ。
ご存知の方も多いだろうがダーウィンの唱えた進化論は猿から人間が進化したというものであり、これは聖書の語る神が人間を作ったという考えから大きく反しているため、しばしば論争になりやすい」
カエル「日本人からすると何を馬鹿なことを……という思いもあるけれどね」
主「だけれど、世界では進化論を教えない国というのもある。近年ではエルドアン大統領によってイスラム化が進むトルコでは、進化論を大学以外で教えることは禁止となった。その理由は”進化論が複雑だから”というものらしいけれど、真意は宗教的価値観に逆らう考え方は学校で教えるのは不適切、という思いがあるのだろう」
カエル「う〜ん……なんだかなぁ……」
聖書と同性愛について
聖書では同性愛って禁止されているの?
同性愛だけではなく、かなり性欲については厳しいね
主「マタイの書の5章ではこのような記述がある」
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
カエル「うわ、心の中で情欲を抱いただけで罪なんだ……」
主「かなり厳しいよね。
厳しく聖書を解釈すると、子供をもうける以外の目的の情欲は罪なんだよ。
同性愛は子供ができるはずもないから、それは罪である、となる。さらに他の記述では明確に同性愛を禁じている項目もあるね。
宗教的価値観の根強いアーカンソー州において、同性愛というのはそのものが”罪”と考えられていて、もしかしたら性が絡む分だけ下手な犯罪……窃盗などよりも偏見が強いかもしれない。もちろん、それは我々の常識からすると変だと思うけれど、この州ではキリスト教の価値観が非常に根強い。
ましてや父親が牧師となると、その戒律を守ろうという意識はさらに根強くなるでしょう」
カエル「う〜ん……これは難しいなぁ」
主「だから父親があの施設に入れて同性愛を治してもらおうという行為は、やっぱり息子を思っての行動でもあったのだとは思う。
ラッセル・クロウの名演技もあって複雑な心境を見事に演じていた。
それが息子を救うわけではないというのは……いつの時代も親子のすれ違いとしてよくある話かもね」
以下ネタバレあり
作品考察
それぞれの立場について
もう結構語っている気もしますが、ここからは結構なネタバレを込みで語っていきます
今作で驚いたのが、所長が同性愛者だったということだ
カエル「責任者として矯正する行為に加担していた張本人が、実は同性愛者だったという衝撃の内容が明かされるわけだけれど……」
主「原作で描かれた時代が2004年ということだけれど、インターネットは一般化してきたとはいえ、まだSNSなどがここまで一般的ではなかった時代でもある。日本ではニコニコ動画も生まれる前だよね。
その中で地域の常識というのはどれほど強くのしかかってくるのだろうか?」
カエル「周囲がキリスト教の教義が正しいと信じていたら、それ以外の価値観をしるチャンスはなかなか訪れないかもしれないね……ましてや、10代の若い子だったらなおさらかなぁ」
主「おそらく、それはあの責任者のヴィクターだっけ? 彼も同じだと思うんだよ。その一方的な価値観が正解と思い込み、それこそが唯一の道だと考えてしまう。
本当はそんなことがなくても、それ以外の可能性は一切思い浮かぶことができない状況に追い込まれる。
そして同じような同性愛者を”矯正”させることによって、自分が正しい道を選んでいるように思い込んで、それを救いとしていたんじゃないかなぁ。
ここは監督 ・脚本も務めたジョエル・エドガーソンの名演技もあって、強く印象に残ったねぇ」
変わろうと思っても変われない思い
……だけれど、同性愛者であることを変えることはできないよね
その意味で、本作は”変われない苦悩”を描いた映画とも言えるんだ
主「例えば、同日公開で自分が大絶賛した『響け! ユーフォニアム』では変わりたいと願う少女たちの青春ドラマが描かれている。あるいは、もう1つの同日公開の映画では『シャザム!』では家族愛について不信感を抱く少年が変わる姿に感動を覚える。
だけれど、本作は違う。
どんなに変わろうと思っても変われないもの……それを描いているんだ」
カエル「同性愛者であることによる苦悩だけでなく、変われない苦悩かぁ」
主「それはヴィクターも同じであり、彼は必死で変わろうとした。キリスト教が定め、周囲の人物が語るような人間になろうと必死で努力した。それに巻き込まれた人たちはたまったものではないけれど、でもあの施設にいる中には同性愛者であることに対して罪の意識を持つ人だっているだろう。
だけれど、変われなかった。
何をやっても変わることができなかった。
これは同性愛の物語だからまだ”変わらなくていいよ”と言えるけれど……これが先ほどが語るような引きこもりや不倫、あるいは近親愛だとしても同じことは言えるのだろうか?」
カエル「……犯罪ではないけれど、少なくとも”変わらなくていいよ”とは僕も言えないかなぁ」
主「あの社会における同性愛者というのは、罪の存在であり犯罪者扱いされてしまうだろう。
それでも”変わらなくていい”と周囲も自分自身も言えるのか?
それは……とても難しく、ジャレッド少年の出した結論がとても強いことがわかる」
父と子の対話
この映画でもっとも注目を集めるのではないか? という場面だね
このシーンを見たとき、多分自分は多くの人と違う感想を抱いた
カエル「ジャレッド少年の『お父さんが変わるべきだ』という意見に賛同する人も多いのかなぁ」
主「そんな簡単な話ですか?
ここまで人生の半分以上、おそらく50年近い生涯をキリスト教に捧げ、牧師として周囲を導きながら生きてきた人間が『わかった、息子を認めるために同性愛に対する偏見を捨てよう』って簡単に言えるものですか?」
カエル「それは……でも、変えてもらわないといけないわけで……」
主「自分はジャレッドが語る『あなたが変わるべきだ!』という意見は、お父さんが施設に入れたのと同じような言動ですらあると考える。
宗教や信仰というのは個人の中のパーソナルな部分ですよ。
そこを変えることは簡単にできない。それは同性愛と同じくらい、尊重されるべき部分ではないだろうか?
つまり、本作が描き出したのは……”同性愛という変えられないパーソナルな性”と”信仰という変えられないパーソナルな思想”のぶつかり合いである。
だから自分はどちらが正しいとか、どちらが悪いとは言えない。
どちらも同じく尊重されるべき、個人のアイデンティティに関わる重要なことである。
それがぶつかり合う姿に……頭を抱えてしまったかな』
まとめ
では、この記事のまとめです……
- アメリカ南部の特殊な地域性を反映した物語
- 同性愛と周囲のキリスト教社会の価値観のせめぎ合いが見所
- 変わりたくても変えられないもの同士の衝突に頭を抱えてしまう
自分には響く部分も多い映画でした