今回は『メイクアガール』の感想記事になります!
SNSを中心に個人・少人数制作で活躍する安田現象監督の初長編作品とのことだね
カエルくん(以下カエル)
今回はめちゃ長い、1万字近くある記事になります
主
後半は考察で、そこはネタバレありで話しているので注意してください
カエル「色々な解釈ができる作品なので、話が長くなってしまったね。
それでは、感想記事のスタートです!」
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Xの短評
#メイクアガール
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2025年2月3日
SNSで多くのフォロワーを集め安田現象監督の長編作品です。
(ボクも『呪いの人形』シリーズが好きです)
少人数体制とは思えないほど見応えのあるCGアニメーションに驚かされたものの、粗が所々に感じられ、賛否が分かれそうなのも理解できますが、個人的には好きな作品ですね。… pic.twitter.com/6E2pZvquOB
Xに投稿した感想
#メイクアガール
SNSで多くのフォロワーを集め安田現象監督の長編作品です。
(ボクも『呪いの人形』シリーズが好きです)
少人数体制とは思えないほど見応えのあるCGアニメーションに驚かされたものの、粗が所々に感じられ、賛否が分かれそうなのも理解できますが、個人的には好きな作品ですね。
物語制作において「上手い」という点は大きな加点要素ではあるものの、必須要件ではない――これがボクの考え方です。特に、個人が監督・脚本・絵コンテ・演出を一手に担う場合、むしろ重要になるのは“個性”や“癖”(クセ・ヘキ)だと思っています。
今作はその“癖”が存分に活かされており、久々にワクワクさせてくれる作品に出会えました。ボクはこうした作品が大好きです。
もちろん拙い部分が目立つのも事実で、厳しい意見が出るのも納得できます。ただ、“上手い”作品に少し飽きてきているボクとしては、今後さらに色々な枠を取り払って、この“癖”を一層推し進めてもらいたいと願っています。
もっとも、その結果についての責任は一切負えませんが(笑)
感想
それでは、感想からスタートです!
確かに賛否が分かれるのもわかるけれど、自分は好きだな
カエル「現在、この記事を書いているのは公開から1週間ほどなのですが、うちのXのTLやFilmarksなどを読む限りにおいては、賛否両論……この場合は否も多いのですが、結構分かれている印象です。
ただ、これは悪いことだとうちは考えていません。
それだけの個性があるということで『普通だね』という感想を残す人が少ないという証拠でもあると思います」
最近、よく考えるけれど”良い・悪いとは何か”ということだろう
主「Xの短評でも書いたけれど、本作は決して”上手い作品”ではない。
人によっては拙い部分が目立つという意見もあるだろう。そして、それは自分も同意する部分が多々ある。
だけれど……上手い作品では味わうことのできない、ある種の粗々しさの中にある思いが感じ取れる作品になっている。
それを好きか嫌いかは鑑賞者の感性によるけれど、自分は好きだね」
上手いわけではないけれど、面白い作品ってこと?
面白いというのも、また難しいなぁ……
主「この辺りはニュアンスが難しいけれど、商業作品である以上はプロとしてしっかりと整理されている、技術の高い作品が理想かもしれない。それでいうと、今作はやはり個人制作の域を抜けていない。
だけれど……だからこそ、その素材的とも言える粗々しさの中に独特の味わいが宿っているんだよね」
”上手い”では描けない作品に
その辺りをもう少し細かく探っていきましょうか
上手いだと、描けない思いというのもあるんだよ
カエル「上手いと描けない思い……?」
主「監督の資質というものを考えると、例えばシリーズ作品とかだったら、上手いを求められるだろう。そのシリーズらしさを活かし、スタッフの技術力と予算を考え、制作時間を考え、さまざまな条件の中で優れた作品を模索する。まあ、職人的監督と言ったらわかりやすいのかな。
だけれど、今作のように監督・脚本・絵コンテ・演出などを個人で手がけている、作家性の強い作品の場合は、そういった上手さよりも”個性・癖(クセ・ヘキ)”が求められるわけだ」
少人数制作だからこそ、監督などの個人の癖が必要ということだね
だから、今作の場合は”上手い”よりも”癖”が出ていることが重要だと考える
主「その意味で、今作の評価が割れているというのは、とても良い傾向だと考えている。
それはその癖が強く発揮されたという証拠でもある。上手い監督や作家を求めるならば、安田現象監督ではなく、アニメスタジオで実力を研鑽してきた人を連れてくればいい。だけれど、そうではなく、安田現象という個人クリエイターを連れてきて、オリジナルでやるのであれば、それだけ癖がある作品を生み出すのが、自分は正解だと思う」
その癖を気に入るか気に入らないかは、観客の勝手だけれど、作り手としては100%のものを出したってことだね
鑑賞者の立場で、かなり偉そうなことを言わせて貰えば、あとは監督がどの道を歩みたいかだ
主「例えば細田守監督や、新海誠監督のように、国民的と言われるようなアニメ監督になりたいならば、もっと色々と……脚本の作り方などを学んでいって、大作を作れるようにチームを組んだりする必要があるかもしれない。
そして、多分、その道に進むと自分は否定的な感想を言うでしょう。
”面白くない作家になったなぁ”と言うと思う」
……かなり天邪鬼な意見だね
多くの人に受け入れられる大衆性を獲得するというのは、ある意味では作家性を潰していく作業にもなる場合が多いからね
主「だけれど、このままこの作家性を……アングラな魅力を発揮し続けるならば、それこそマイナーな監督で終わるかもしれないけれど、一部で熱狂的なファンを生む……あまり最近はこの言葉を使わないようにしているけれど、一般的に”カルト映画”の監督になれると思う。
ただ、その道は商業的な成功が約束されているわけではないし、茨の道だろうし、自分は褒めるだろうけれど、何の責任も取れない。
でも、できればそのアングラな魅力を発揮して欲しいんだよね」
00年代のアングラなオタク文化を連想させる作品に
今作のどういった部分が、その”個性”だと感じるの?
自分なりの言葉で言うと”00年代のアングラなオタク文化”を感じさせるんだよ
カエル「今となっては死語となっていますが、アングラとはアンダーグラウンドの略語で、正式には1960年代に発生した演劇などにおける1つのジャンル、もしくは傾向を表す言葉です。
うちの場合は”00年代のアングラなオタク文化”と称しているけれど、それは……例えばエロゲーや同人誌のように、一般の人が触れない濃いオタク文化を指しています」
主「安田現象監督はニトロプラスに在籍歴があるとのことだけれど、まさにニトロプラスこそがその文化の大きな存在だよね。『沙耶の唄』とかもそうだし……ニトロプラスを離れるけれど、今ではネタ的に語られることも多い『School Days』、あるいは一般の漫画・アニメでも『エルフェンリート』もその類だよね」
10年代では『魔法少女まどか☆マギカ』『進撃の巨人』などのように発展していく、基となった文化なのかな
それこそ『進撃の巨人』に大きな影響を与えた『マブラヴ』なんかも、00年代のアングラなオタク文化の作品だろう
カエル「大成功して現在でもブランドとして確立している『Fate』『ひぐらしのなく頃に』とかも、同じようなものかもね」
主「自分なんかはこの時代に囚われている感もあるから、今作の描いたことは結構理解しやすかった。
なんというか……グロテスクさが語られやすいけれど、その奥にある人間心理を描いている作品も多くて、アングラだからこそできる表現があったんだよね。
それでいうと、本作はまさにその空気感を宿しているから……00年代くらいのディープなオタク文化を知っていると、かなり理解しやすいだろう」
物語の拙さについて
ふむふむ……そこまで説明しているけれど、じゃあ”物語の拙さ”というのは何?
一言で表すと情報量のコントロールってことなのかなぁ
カエル「情報量のコントロール?」
主「物語を作る上で気をつける技術として言われるのが、”キャラクターの知っている情報”と”観客が知っている情報”のコントロールなんだよね。
どのタイミングで重要な情報を観客が知るのか、そしてそれを知るのがどのキャラクターで、どのタイミングで知るのか……というところを調整するのが大事なんだけれど、本作は……おそらく意図的に、観客に知らせる情報をかなり制限している」
つまり、観客に物語の内容を知らせないようにしていると?
だから考察が捗るとも言えるし、本作を観て”説明不足だなぁ”と感じるのも当然なんだよね
カエル「そもそも説明していないからってこと?」
主「説明しまくりの部分もあるし、全く説明しない部分もある。
自分の場合は……メタ的な話になるけれど、いつも”自分が物語の作り手だったら”ということを仮定しながら作品を見る癖があるから、自分の進んでほしい方向に物語が進んだので、自分なりに理解ができて、気に入れたというのはあるかもしれない。
映像でも最小限の説明しかしていないから、考察がしやすくてバズりやすい作品でもあるけれど……考察は、まあ、こじつけみたいなものでもあるし、もっと導線を作って観客の感情を誘導する必要はあると思う」
ただ……それをすると技術的に上手くはなるけれど、同時に個性は平凡になるから、そのバランスは難しいんだけれどね
映像表現について
映像表現についてはどうだった?
一定以上のレベルがあると感じたよ
カエル「少人数制作とは思えないほど、アクションも動き回るし、見応えがある映像だったね!」
主「あくまでも少人数の、商業とは言いづらい規模の作品という前提だけれど、その中ではかなりレベルが高いように感じたかな。
元々短編も見ていたけれど、このレベルの高さであれば、確かに長編として成立させたいとなるのもわかる気がする。もちろん、もっと凝ってほしい部分や細かい荒さもあるけれど、キャラクターに愛着が湧くし、疑問は少ない作品だったかな」
以下ネタバレあり
考察
大まかなキャラクターの解釈
それでは、ここからはこの作品の考察を行っていきましょう。
とはいっても、考察そのものにあまり意味はないような気もするけれど……。
主「“理屈と軟膏はどこにでもつく”という言葉があるように、考察は答え合わせでしかなくて、重要なのは“その作品を通してどのように感じたか”だと思っているから……あくまでも“こういう解釈をしましたよ”という意味で聞いてほしい」
で、どういう解釈をしたの?
まとめると、やっぱりこうなるのかなぁ
明 → 人造人間
明以外の人たち → 明が人造人間だと知っている
母 → 人造人間を通して自分の復活を企てる
こういう解釈を行ったから、1つ1つについて解説していこう
明について
ふむふむ……明も人造人間、というところから、考察がスタートしているんだね
ここが今作のSF要素の肝の1つなのではないだろうか
カエル「それはどういう部分を見て、そう判断したの?」
主「まあ、いちばん大きな理由はメタ的なところで……00年代のアングラなオタク文化なら、そういう設定になるだろうなぁ、というのが発想の素。
あとは“自分だったらそうする”という考えもある。
そこから組み立てた仮説だけど、けっこう信憑性はあると思ってる。
たとえば……なぜ明があそこまで“効率性”を重視するのか、という問題だね。」
明があまりにも人間らしくない、という意見もあるよね
そりゃそうで、だって人間じゃないんだからって話
主「明は母親が明確な目的を持って生み出した人工的な存在だからこそ、人間関係や常識を持たないまま描かれている。
つまり、0号と同じなんだよ。
その目的は後述するけれど、0号などを制作することで母の目的を達成すること。
だから、彼は徹底して自分の目標を推進することしか興味がないし、対人関係や周囲の状況には無頓着なんだ。
そしてだからこそ、誰もアクセスできない母の情報に、アクセスすることができる」
明以外の人たちについて
明以外の人たちについては、どのように解釈するの?
彼らは人間だけど、観客に重要な情報を隠しているのではないだろうか
カエル「重要な情報って?」
主「それは“明が人造人間だと知っている”ってこと。
もちろん、母親と同じ研究所にいた絵里や高嶺は当然知っているし、茜もおそらく知っている。邦人は……どうだろう。彼だけは何も知らない可能性もあるけれど、知っていてもおかしくないとは思うかな」
それはどういう部分からそう考察するの?
茜に関しては、状況証拠だね。
主「茜は0号が登場したときに『もう驚かないわ』と言っているけれど、目の前に人造人間の明がいるから驚かないんじゃないか。彼女は『お目付け役だった』とも語っているけれど、この言葉は“幼馴染”としてのお目付け役じゃなくて、人造人間である明の行動を監視する役目だった、という意味だと解釈する。
だからこそソルトに対しても『あなたも行っていいのよ』と指示を出した。
こう考えると、明の正体を知っている可能性が高いし、さらに突飛な発想だけれど、茜もまた人造人間である可能性もゼロではないよね」
絵里と高嶺
絵里と高嶺は人間なの?
おそらく人間で間違いないだろう
主「高嶺について気になったのは、明が“おじさん”と呼んだこと。
母親とは大学か研究所の同期だったようだけれど、”おじさん”と呼称することが、なんだか気になった。もちろん、それは公式設定にあるように育ての親だと解釈することも可能だろう。
ただ父親ではなく“おじさん”と呼ぶのは、メタ的には物語における父親の不在を示すためだと考える。
結果的に、明の人造人間説を補強する存在になっている。
そして絵里は……直接的には言いづらいけど、やっぱりあの行動だよね」
後半の展開だね
絵里の思いを考えると、結構わかる気がする
カエル「絵里がああいう行動をとった理由だよね」
主「それこそ……人造人間って、現実世界でいうAIみたいなものだと思うんだよね。人間の能力を凌駕する可能性がある人工的な存在で、しかも成長していく。
AIによって人間の活躍の場が制限されたり、能力を超えたパフォーマンスを発揮されたときに、それを受け入れられるかどうかは個人の考えによると思う。
ここら辺は別作品で詳しく語りたいところだけれど、人間とAI(ロボット・機械)の対立は永遠のテーマでもあるし、”人間は機械に劣るのか?”という疑問もつきまとうよね」
『AIの方が圧倒的に優れているから自分たちの仕事を奪われても仕方ない』って割り切る人もいるけど、なんとかして勝ちたいと思う人もいるわけだ
主「むしろ、それ自体が人間らしい感情ともいえるし、むしろその根性が人類を発展させてきたとも言える。
だからこそ、絵里は“人間の代表”として、人工物に負けたくないという気持ちが強かった。同時に、ソルトたちが自分を傷つけられないと知っていたから、あそこまで余裕を見せていたという解釈もできるかな」
母親の思い
じゃあ、その母親の目的って何?
『Make a Girl』のMakeが誰にかかっているのか……つまり母親自身の復活計画でしょう
カエル「おー……それはすごい話だね」
主「自分の体が病で弱っていると知って、じゃあどうするのか? と考えたときに生み出したのがこの計画。
冒頭で母親の意識? というか人工知能みたいなものが、どこかの機械に宿っているような描写があったけれど、それを最終的に体に宿すという計画だね。
明はその計画を現実世界で遂行するために作られた存在で、だからこそ研究成果にあれほど執着した。
要は、そのために生まれた存在だからね」
そうなると、あの指示役となったソルトは母の復活計画に必要な存在だったのかもしれない
カエル「あの動けないソルトは、母親の意識を機械の体に入れるための素体ってこと?」
主「そうだね。まず母の意識を機械化 → 機械の体への移植 → 人工的な人間に移植、という計画なのではないだろうか。
母は結局、生前は有機生命体へ意識を運ぶことはできずに、寿命というタイムリミットを迎えた。
だから、それを可能にするための研究を続けてもらう存在として、明を作ったんじゃないかな」
そして、最後は0号の体を使って母親が復活したわけだね
そういうこと、まとめると以下のようになる
明の研究していたネットに介入し指示を出すソルト → 機械の体に母を入れる研究
真の目的 → 0号(有機生命体)の中に母の意識を入れて復活させる研究
主「そう考えると、もしかしたら絵里の行動も計画されていたものだったのかもしれない。
明の覚醒を促すために……それすらも含めて母親のシナリオだった可能性を否定はできないんじゃないだろうか」
今作と比較対象になる作品
今作を考える上で、改めて重要だと思う作品は何?
やっぱり『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』と『新世紀エヴァンゲリオン』じゃないかな
語るまでもない名作SFアニメだね
主「物語としてやっていることは、まさにこの2作の融合という印象を抱いた。
母親がやっているのは『攻殻機動隊』で草薙素子が行ったこと、つまり自分の意識をネットの海に漂わせ、いくつもの義体を使って現実世界に介入する“電子の生命体”になるということだね」
そしてもう1作がエヴァンゲリオンだと
もう、今までの話を聞いているとまんまエヴァでしょ?
主「母親の復活計画を成し遂げるために0号(レイ)を作り、その体を使って意識を甦らせる……それを“人類”というクソデカ主語で補完計画を行えばエヴァだけど、今作はそこまで規模が大きくはない。
この2作を足して作られたのが本作だと感じるし、ある程度の年代のオタク、まあ今の30代〜40代くらいなら、同じ発想にたどり着く人も少なくないんじゃないかな」
解釈
人間と機械の違い
ここからは考察というより解釈の話になるけど……
この映画が描いたことは何か、ってことを考えたい。
カエル「端的に言えば、“人間と人工物の違いは何か?”っていう問いを投げかけて、ある種の答えを出したということだね。」
主「ちょっと話が逸れるけど……最近ガンダム絡みで、イラストレーターの竹を懐かしく思ってさ。それから西尾維新の小説を読み返しているから、それっぽくいうと『人間が人間らしくいられるのは、“ルールを作る”ことと、“そのルールを破ることができる”から』じゃないかと思うんだよね。」
……ルールを作って、そのルールを破る?
逆説的な意味合いだけどね。
カエル「ルールを作るのはわかるよ。人間社会は自然界と違って、法律や社会規範のようなルールを作って、それを守ることで成り立っているからね。
でも、ルールを守るのが文化的活動ってことの方が正しいんじゃないの?」
主「“ルールを守る”ことこそ人工物が得意とするものだよ。
例えば電卓は1+1=2という数式ルールに従って計算するし、そのルールを破ることはない。機械的な故障によるエラーは起こるけれど、基本的にはルールそのものを逸脱することはない。
ディストピア社会や機械の反乱といったテーマでも、多くの場合“そうプログラミングされているから”って話も多い。
一方で、人間はルールを破ることができる。
つまり……殺す、盗む、犯す、騙す、傷つける、罵倒する。
社会規範や法律を破ることができるからこそ、人間らしさがあるって考え方が成立する」
与えられたルールへの叛逆
……? よくわからないかも
ここで動物を引き合いに出すとややこしくなるから、あくまでも人間と人工物の対比で語るよ
主「この映画の中で出てきた0号は、アシモフが提唱したロボット工学三原則、つまり『人間への安全性、命令への服従、自己防衛』に従っているような存在に見える。
だけど人間はそんなものがない……他者を傷つけることができるから戦争が起き、命令に反することができるから革命が起き、自己を防衛しないこともできるから自死を選ぶことさえある。
要するに与えられた、あるいは決められたルールに対して叛逆できる。
そこが機械と人間の最大の差異じゃないかと考えるんだ」
つまり、後半の0号がああいう行動を取ったのが、ある意味では“人間らしさ”だと……
あれが起きて初めて人間として覚醒し、機械に宿っていた母の意識を0号に移すことで、母親は復活を果たしたんだろうね
主「その意味では本作は、人造人間を超えて”人類の創造”という次元までたどり着いたのかもしれない。
そう考えると、本作は創世記ということもできる。
そしてそれは……明が人造人間だと仮定すれば、アダムの肋骨からイブが作られたように、新しい生物のアダムとイブの誕生というわけだ」
作品を離れた解釈
と、ここまでは作品内容の考察と解釈を行ってきましたが……もう少し作品と距離をおいて、批評というか、作品に対する自意識に対する解釈をしていきましょう
まだまだ粗削りだけれど、でも、これはこれでいいと思うよ
カエル「今作って色々な作品の要素が詰め込まれているよね」
主「それこそ最後のマンションの階段を降りるシーンは『言の葉の庭』だしさ。新海監督もそうだし、今まで挙げた作品もそうだけれど、引用に次ぐ引用でできている。もちろん、自分が気がついていないもの、あるいは監督の無意識だったり、あるいはこちらが誤読しているものもあるだろう。
引用そのものは決して悪いことじゃない。
むしろ……押井信者である自分は、現代の創作は引用を重ねることで成立するとすら思っている」
パクリだなんだ、オリジナリティがないとか、そういうことをいうつもりはないと
むしろ、オリジナリティに溢れているよ
主「何回か言っているように、00年代を中心としたアングラなオタク文化を踏襲しているから、自分なんかは15年くらい前の作品に感じた。それは古臭いという意味ではなく、現代では失われつつあるもの、という意味だ」
個人的には、本作を推したい気持ちがある
主「ただし、先にも述べたことの繰り返しになるけれど、自分が推す姿をそのままいくということは、粗々しさを継続するということだし、賛否両論を巻き起こすということであるから、国民的監督にはなる道は諦めることになるかもしれない。
だから、あとは監督がどういう道をいくか、だよね。
商業的に……もちろん興行収入とか、大人の事情があるだろうけれど、そういうことを意識して大衆に受け入れられていくのか。
はたまた、それを無視して個人制作の延長のような、作家性溢れる作品にするのか。
その部分も含めて、とても注目したい逸材が登場した、というのが結論かな」