物語る亀

ネタバレありの物語批評

ヴィンラント・サガ 17巻感想 罪と赦し

 プラネテス好きととしては当然のように読んでいるヴィンラント・サガの新刊が発売されたので、その感想を書いていきます。

 

 もう、なんというか、現代の漫画とは全く違うところを一人で突っ走っている感もある幸村誠。人を殴る、殺すことに躊躇のない少年バトルう漫画もまだまだたくさんあって、それより酷い絶望的な状況に追い込んで、普通の青少年たちを無理やり殺し合いさせるようなデスゲームものも数多く出版される中で、罪と赦しについて書き綴っていくのがヴィンラント・サガ。

 前半のバリバリのヴァイキングが略奪、暴行、殺しを普通に行う悪逆非道の連中とともに強くなっていく復讐鬼トルフィンもまた面白いものであったけれども、それはただ単に伏線でしかなかった。よくもまあ、ここまで長い事伏線張りをやってきたなぁと感心する。

 

 では簡単なあらすじ

 ついにトルフィンは過去の自分の行いを振り返らねばならない時が来てしまった。過去に虐殺した村の生き残りの女性に出会ってしまったのだ。猟で生計を立てている彼女は、親や妹を虐殺したヴァイキング、そして親を直接手にかけたトルフィンを決して許すことはなく、決闘を申し込む。

 だがトルフィンは過去の過ちと贖罪のために、彼女に傷をつけることなく説得して、納得してもらうためにその決闘に挑むのだった……

 

 

 ついにその時が訪れた。今まで散々人を殺めてきたその罪を憎む人が目の前に現れた時、トルフィンにはただ言葉で話すしかなかった。

 これは以前見た映画の話なのだが『顔のないヒトラーたち』という映画がある。この映画はホロコーストの罪を暴こうと懸命に努力する検事の奮闘を描いた作品なのだが、その中にも出てくるように、極悪非道の行いを行ったかつての罪人たちが、十年もすれば普通の生活を送り、しかも町の気のいいおじさんになっていたりするのだ。

 被害者意識としてはそれを赦すこともできないだろうが、だがその犯人の彼は本当に改心し、悔い改めていた場合において、その罪を責めることが本当に人のために、もしくは社会のためになるのだろうか?

 

 人は状況によっていくらでも変化するもので、私だって戦争中や飢餓などで物を奪い合わなければ生きたいけない状況であれば、おそらく人を殺すだろうし、物を盗むだろう。それはその人が生まれ持った性格なのか、それとも状況なのかということをしっかりと見定めるという非常に難しい行為が要求される。

 少なくともトルフィンは過去の復讐心から決別し、平和を愛する青年に成長して、その行為に嘘はなくまた誰も傷つける気もないことは明らかだ。

 それでも簡単に罪は赦されることはない。

  

 キリストはただの人間だった、という説がある。

 彼がやったことは難病の人を治すのでもなく、障害を除いたわけでもない。ただ彼は他人から疎まれて蔑まれるような人の傍にいて、愛や神の言葉、そしてその人の言葉を聞いていただけだった、という話だ。

 決して奇跡があったわけではないが、だがその難病や障害を抱えた人にとって、自分の話を聞いてくれる他者の存在そのものが奇跡のようであっただろう。

 私はキリストが信じられない奇跡を起こした救世主説よりは、こちらの普通の人間だった説の方がより神聖な人物のように感じられて好きだ。

 ただ話す、話し合う、理解し合う、それだけで実は多くの物事は解決するのかもしれない。だが怒りや憎しみはその場すらも破壊してしまう。だから『赦しなさい』の教えにつながるのだろう。

 こんな誰にでもできるが、誰にもできないことを実践し、教えを広めたからこそキリストは偉大なのかもしれない。

 

 それにしても、幸村誠キリスト教の理解度というものは非キリシタンの人間からすると相当に深いもののように見える。今まで教会や神父といった人たちが語ってきた教えよりも納得がいくし、またこれならば世界中の人間が信仰するのもわかる。

 これだけの内容の深い作品というものも中々ない。

 

 あとはヒルドの過去の少女の姿が結構可愛かったのが評価高い。しかしベアリングを発案したり、この時代の人間にしては天才すぎる発想だよな、ヒルダ……

 

 ここからまだまだ旅は相当長く続くと思うが、幸村誠がいかにトルフィンの旅を締めるのかずっと見ていきた名作だと思う。

 

(ちなみに本記事においては赦しは宗教的、または罪を赦すという意味で使っています)