今回は好評のうちに終わった『イエスタディをうたって』の感想を、この作品らしくつらつらと一人称で語っていこうと思う。
青臭い?
ほっとけ
#イエスタデイをうたって
— 井中カエル@物語るカメ/映画・アニメ系VTuber(初書籍発売中!) (@monogatarukame) 2020年6月22日
何者かになりたい
何者になれるかわからない
そんな20代初めの焦燥感を思い出した
恋愛ってなんだろう
仕事ってなんだろう
過去に縛られながらも少しずつ歩む人生讃歌が染みる
全12話で紡がれる物語の濃度と時間と感情が心地良かった pic.twitter.com/JuQYEFlEqh
TVアニメ「イエスタデイをうたって」4月4日(土)テレビ朝日 新・深夜アニメ枠「NUMAnimation」放送開始
秒速5センチメートルの突きつけた絶望
『秒速5センチメートル』を初めて見た日、3日間ほど気分が落ち込んだことがある。一部では鬱アニメと呼ばれることもあるほど、人を引き込む力のある作品だということはあるだろう。また物語が詩的で美しいものの、初恋の終わりを描いた悲劇的な内容ということも響いたのかもしれない。だけれど、単なる悲恋の物語でここまで衝撃を受けることは、正直思ってもみなかったのだ。
その理由が何か、考え込んだ。
答えは、秒速5センチメートルは”何者にもなれない自分”を突きつけてきたからだろう。
若い頃、自分は天才だと思った。
特別な人間だと思っていた。
自分の体が学校の授業で知るような構造になっているのか疑問だった。きっと自分は誰よりも頭が良くて、世の中の大人たちはバカばかりで、才能に溢れていると思っていた。要は、単なる世間知らずの厨二病なのだが『サラリーマンになるのはバカらしい』と声高に叫ぶ若者が出てくる漫画も多く、そして”個性の尊重”の名の下に、様々な多様な価値観を肯定する風潮があったからだろう。
その時点で、どこにでもいる普通の若者だったのだ。
だけれど、自分の才能が大したものではなく、そもそも才能と呼べるものもなく、世界を変えるどころか、学校生活を変えることすらできない。それでも肥大化した自意識はきっと何かが変わると信じて、今の自分は仮初の何かだと信じ続けた、とも言える。
もちろん、そこまで言語化していたわけでも、不遜な態度だったわけでもないだろうが。
だが、その思いを砕いたのが『秒速5センチメートル』だった。
過去の美しい思い出に縛られて、きっと初恋の女の子と再会できると信じて暮らしていても、結局心は1センチも近づかない。
『そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いが綺麗に失われていることに気がつき、もう限界だと知った時、会社を辞めた』
このセリフの前後の感覚に覚えがある人は多いのではないだろうか。何かを必死に追いかけていたはずなのに、その思いがなくなる。
自分のアイデンティティが失われたような絶望感。
”きっと何者にもなれないお前たちに告げる”というのは『輪るピングドラム』の中の発言だが、その言葉が重くのしかかる。そこから自分の人生を見つめ直し、何を手に入れ、何を失い、そして生きていくのか。それが青春期が終わった青年ともおじさんとも言えない、微妙な年齢の人々の眼前に突きつけられた。
過去を追いかける者、未来を追い求める者
リクオは大学を卒業後、自分のやりたい道を模索しながらも、何をしたいのか、何ができるのかも見出すことができずにフラフラとバイト生活を送っていた。
榀子は教師となり、忙しない日々を送っていたものの、自分の過去に存在した男に縛られて、前を向くことができなくなっていた。
2人の共通点は”過去への憧憬”だろう。リクオはかつて片思いを抱いた榀子に、榀子は永遠に届かない場所へといってしまった早川兄への思いに縛られている。学生時代を、青春期を終えた彼らにとって、これから先の人生をどのように歩めばいいのかわからない。
何かができそうな気がしながらも、何もできないリクオ。
愛を告げられたところで、それを受け入れることができない榀子。
この2人を”過去と肥大化した自意識”が縛り付けている。
ハルはリクオに父の影を追い求めた。
そこには失ってしまった父への憧憬と、リクオに重ねている部分もあるだろう。彼女のタバコへの視線が、大人になりたいと未来を渇望する彼女の姿を象徴する。
浪は榀子に母の影を追い求めた。
早くに母を亡くし、一家の世話を焼いてくれる榀子の姿を母と重ね合わせ、同時に敬愛する兄を超える手段として見ていた節を感じる。榀子への思いが恋愛なのか、それとも手に入れたいのは兄に勝ったという感覚なのか、その答えはそれぞれの視聴者の中にあるべきものだろう。
この2人にとって、恋愛対象への思いは同時に失われた家庭を追い求めるものだった。
その意味では2人もまた、過去に縛られた者たちだった。
だけれど、その縛られた思いは、やがて恋愛感情として2人に深く染み付く。
その意味において、やはりハルと浪は同じような存在なのだ。
以下、最終話のネタバレがあります
過去との決別……遅かった青春の卒業
テレビアニメ版のラストにて、リクオは榀子への別れを告げる。
長年追い求めた理想の美女を、あっさりと失ったことに対して様々な意見があるだろう。だけれど、その選択は少なくとも自分には妥当なものだと思われた。
それは以下のセリフがあったからだ。
『多分、俺たち2人の問題なんだ。
中略
気付いたんだ。俺は胸を張って榀子を好きだと言えないことに』
リクオにとっての榀子とは、遠野貴樹にとっての篠原明里だったのだろう。
青春期に訪れた恋、甘く苦く切実なる思い。そこにしばられ、いつまでも過去を見てしまう、美しき日々の象徴。だけれど、いつまでもそこにいることはできず、日々は過ぎ去り成長していく。その青春期の象徴への別れをつげ、自分の人生を歩む必要があった。
榀子にとってのリクオとは、過去からの逃避先でしかないのだろう。浪の、昔の男に向き合うこともできず、ただそこから逃げるための自分を好いてくれる、キープしていた男に逃げ込む。リクオを愛することで、自分は先に進めていると感じることができる。
だけれど、2人が本当の意味で過去と向い合い、時に決別するのであれば、あのベンチでの会話は必然だった。
そしてハルへの
『つまり、これまでのことは俺の勘違いかもしれん。今も勘違いかもしれん。だから! 俺はお前のことが好きだ』
この言葉は、リクオが過去の青春期から決別し、今を、そして未来を見つめようという結果のことだ。リクオの語るように、ハルへの思いが本当に愛なのかはわからない。勘違いかもしれないし、自分を好いてくれる適当な女の子を、都合のいいように使っているだけかもしれない。
だけれど、恋や愛なんてどんなものか誰も答えることができないのだから、それでいいのではないだろうか。
ハルの大人への憧憬がリクオへの愛になったように、人の感情なんて規定することができないのだから。
序盤のハルとリクオのベンチ、そして12話の榀子とリクオのベンチを経て、ハルとリクオはぐるっと回って落ち着くところに落ち着いたのだろう。
作品全体として
最後に、作品全体への思いをつらつらと書いていく。
この作品はアニメファンに向けられた物とは思えない。もちろん、演出面など優れたポイントも多く、アニメファンでも楽しめて高得点とつけるだろう。だけれど、この作品はもっと……例えば邦画や、10年以上前のトレンディドラマを愛する人々に向けられるべきだったのではないだろう。
アニメで表現されていながらも、20代前半の難しい心を見事に捉えていた。派手さはないかもしれないけれど、繊細で微細な演出で紡がれた物語たち。それらは1話1話で評価することもできず、12話通して語られていき、完成度はテレビアニメとして屈指のものだったのではないだろうか。
難しい原作をうまく再解釈し、まとめあげたと評価したい。
それと同時に、やはり浪をはじめとして、一部のキャラクターの描き方には少し物足りなさを感じてしまったのも事実だ。あくまでもリクオ、ハル、榀子の関係性を中心としたのは納得であるし、当然の判断とも思うものの、わがままな視聴者としては思う部分もある。
だけれど……
それでも、この作品を生み出してくれた藤原佳幸監督をはじめとしたスタッフ陣の構成や演出には、称賛の言葉以外に何も思い浮かばない。声で各キャラクターに命を吹き込み、音楽で心情に寄り添う。テレビアニメという長丁場を見事に駆け抜けた手腕に、惜しみない拍手を。