物語の作り方、今回は小説というものについて考えていきたい。
この媒体による物語形態のメリット、デメリットって非常に重要なことなので、これから各媒体に関するものを書いていこうと思っている。
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1 小説のメリット
圧倒的な手軽さ
小説という媒体のメリットを考えた場合、まず第一に上がるのが『手軽に創作できる』ということだろう。
基本的に1人で始めることができるし、紙とペンがあればどこでもできる。人件費もかからなければ、資金もいらないのだ。デジタルでも少しスペックの落ちるパソコンを1台中古でもいいから買ってくれば、あとは電気代だけで事足りるわけである。
思い立ったらすぐに始めることができるし、これほど手軽な表現というのも他にないだろう。
識字率の高さ
日本人は世界的に見ても識字率の高い国民だと言われている。これは日本国内のほとんどの人が読者として想定することができるということだ。
もちろん実際には小説を読まない人もいるので1億人以上が全て対象ということはないのだが、潜在的には非常に多くの顧客が期待することができる。
例えば演劇などの場合だと、劇場の大きさなどの制約が出てきてしまう。映画であれば公開する劇場を増やせばいいが、演劇の場合は生で見てもらうことが前提となっている表現なので、劇場を増やすわけにはいかない。
しかし小説はそのようなハコの大きさなど関係ないという強みがある。
何でも表現できる
『ここは宇宙空間である』と一文を書けば、そこはもう宇宙空間であるし、『10億年後の未来である』『200年前の江戸時代』などと書けばそれだけでもう舞台設定の表現ができる。
これが映像作品の場合はそのように見せかけるために背景美術や衣装、小道具、果ては役者の言葉使い、イントネーションまで演出しなければならないが、小説にそれは必要ない。
さらに言えば、文法上おかしいかもしれないが『山よりも大きなアリが砂のような星の上に立っている』などといった映像的な表現が難しいものでも言葉だけで表すことができる。なので『空を飛ぶペットボトルと地を這うおでんの衝突事故』なんて意味のわからない描写であってもなんでも表現できてしまうのだ。
このことにより小説という媒体は古くから様々なジャンルを生み出してきた。現代につながる多くの表現の根幹と言っても過言ではないだろう。
2 デメリット
言葉の壁
小説というのは例えば日本語で書かれた作品の場合、日本語が理解できなければそれを読むことができない。翻訳されたものであっても、厳密に言えばその言葉をナチュラルに使う現地人の感覚と、翻訳された言葉が同じだとは限らないわけである。
例えば日本語で1人称は『私』『僕』『俺』『わし』『うち』『拙者』『おいら』『おいどん』『(自分の名前)』など色々あるが、それを全て英語にすると『I』の一言で終わってしまう。
しかしその言葉全てが全く同じ意味かというと、実は違うものである。『僕』と『俺』では俺の方が粗暴な感じがするし、『拙者』は現代劇では違和感がある。女の子が『僕』などという言葉を使うことにより、それだけでキャラクターの説明にもなる。
このように細かいニュアンスなどは翻訳でも超えられないものがあり、言葉の壁が生じてしまう。
情報量の少なさ
言葉だけで物事を説明しようとすると、非常に難しいという経験は誰にでもあるだろう。説明や説得、売り込みなどをする際は絵や図を使った方がわかりやすいし、映画などは背景の美しさなどは演出の対象に入ってくる。
小説の場合は言葉で全て説明しなければならないが、その場所の細かな詳細であったり、例えば天気や空の色などはいちいち説明することがない。説明しない部分は読者が勝手に想像しなければならない部分であり、その情報量の少なさが表現としてのハードルになってしまう。
言葉に対する意識の違い
これは先に挙げた言葉の壁に近いものであるが、同じ言葉であっても意味が違うということも十分にあり得るのだ。
例えば『10%強』という言葉を使った際に、『12%くらい』と想像するか『18%くらい』と想像するかという問題がある。もちろんこれは12%が正解なのだが、この勘違いは作者にコントロールすることができない。
他にも慣用句だと『流れに棹さす』は加速なのか減速なのか。正解は加速だが、知らなかったり誤って覚えていたら180度違う意味になってしまう。
あとは『大丈夫です』という返答が肯定なのか否定なのかわからないという問題もある。1つの言葉が人によっては正反対の意味を含む可能性も十分にあり得るのだ。
上記の例は知識の問題だが、例えば『大きい、小さい』『手のひらサイズ』という言葉も正確には人によってイメージするサイズは異なる。さらに言えば『赤』という言葉が表す色には『赤』もあれば『赤』『赤』もあるわけで、その言葉で連想するものが正確に伝えるということは非常に難しい。
3 小説の未来
ではこの先小説という媒体はどうなっていくのだろうか?
現在、小説を取り巻く状況というのは過去にないほどの大きな変化を要求されている。電子書籍の登場によるものである。
基本的に小説という媒体は登場から現代に至るまで、千年単位の時間をかけて紙で読むということを前提に作られていた。墨と筆で書いていたものが、インクになろうが、基本的には紙に書かれた文字を読んでいたのだ。
だが、ここにきて電子書籍が登場して紙で読むことを前提としない文化が生まれ始めた。ケータイ小説やネット小説も大ヒットを飛ばすことも珍しい事例ではなくなってきている。
このことに対する嫌悪感が強い小説愛好家は非常に多く、日本においては電子書籍はまだまだ一般的とは言い難い現状がある。
ではこのまま電子書籍は流行らずに廃れていくのだろうか?
私はそう思っていない。
確かに千年以上かけて編み出された小説のフォーマットをそのまま電子の世界に持ち込むと、難しい面も多々あるだろう。電子書籍に向いたフォーマットを紙で読むと違和感がある表現もある。だがこれは逆の面でも同じで、小説のつまった文章というものが電子上に並べらてしまった場合、空白のなさに読みづらさを感じることもある。
その対策である程度文章に間隔を入れて書くということが電子上では一般的だが、それを紙で読むとスカスカな印象になってしまう。
何せ電子書籍が誕生してまだ日が浅く、千年の歴史を誇る紙の書籍の前では子供みたいなものである。まだまだ未成熟な表現媒体だと言わざるをえない。
だが私などにすれば、この未成熟さこそが新たな可能性のようにも感じていて、電子書籍を否定することなく付き合っていきたいと思っている。
勘違いしないでほしいのは、私は紙の小説を否定するつもりは一切ない。ただ、映画で例えればサイレント映画の良さもあるが、トーキー映画の良さもあるし、白黒映画の良さもあれば CGをふんだんに使った映画の良さもある。
そのそれぞれの長所を理解した上で表現形式を変えていくことが重要なのだ。
紙で描かれた小説というのはどうにも行き詰まりを感じていた。これが電子書籍の登場によって大きく変化を遂げようとしている。今はその混乱期であると思うが、これから先の動向に注目していっても面白いのではないだろうか?