落語心中の10話の感想を書いていくが、今回は少し特殊なことをしていきたい。
それは9話までの+10話という形式にする。その理由は後述する。
過去の記事はこちら
1 この作品の脚本構成
前回の記事でも書いたことだが、落語心中という作品は1話の特別編1時間を含めて、2話ごと(1時間)に1つのエピソードが終わるように作られている。
さらにいえば、その過去編も3つに分けられており、5話、9話、とちょうど4話ずつで一区切りがつくようになっている。それを纏めると以下のようになる。
1話 現代編
2〜5話 修行編(弟子入りから二つ目まで)
6〜9話 円熟期(人気が出てくる〜別れまで)
10話以降 決定的な部分
この状態ならば、本来は9話放送直後に感想記事を書くのが正しい姿ではあったが、ぶっちゃけって言えば出遅れてしまい、書きたいことが次から次へと出ていて手が回っていなかった。なので今回は9話+10話という変則的な感想記事になる。
なお、いくらプロの手がける作品とはいえ、これだけ上手く構成されている作品ばかりではない。元々アニメ自体は漫画の特典として作られてあったことも影響していると思うが、相当に上手く練られているなと感心している。
2 声優の演技力……だけではない
このように相当入念に作られているのだが、どうしてもこの作品で話題になるのは声優の落語演技ばかりになってしまう。それは地味な落語という描写上致し方ない部分もあり、絵で魅せるということがどうしても難しくなってくる。
私も過去記事において「声優演技はすごいが、それ以外で魅力がどれだけ出せるか」という部分が課題だと言ってきたが、9話においてこの作品の魅力が声優の演技だけではないことを証明して見せた。
それこそがみよ吉と菊比古の別れの場面である。
ここでの林原めぐみの演技力も当然のように素晴らしいのだが、ここで桜の散り行く中の心中を示唆しながらの画面構成というものの美しさといったら筆舌に尽くしがたいものがある。
ここで桜を選んだのは、おそらく桜の木の下には死体が埋まっているという有名な逸話が元にあり、散り行く桜の花が2人の別れを示唆している。日本人はこれからの時期桜の美に浮かれているが、その美の裏にある潔い散り方など死の暗示する桜の花は心中という場面には打ってつけだろう。
そしてみよ吉と助六がお互いに慰め合う場面において、水面に映る2人を描写したシーンというのは今期アニメ全ての中でも屈指の名場面だろう。
今までの落語心中にはこう言った絵で魅せる演出というものは少ないように思われたが、今回ここまで強く印象つけるような作品に仕上がったということは、並々ならぬ意気込みを感じられた。
しかし、そう考えると前回の感心した演出の回は5話であったから、きっちりと一つの流れが終わるところに力を入れるようにしているのだろう。脚本構成、演出構成の両者がきちんとマッチしているのが、この作品をより魅力的なものにしている。
3 『攻める文化』と『守る文化』
文化には2種類あって、攻める文化と守る文化がある。
例えばアニメ、漫画という文化は攻める文化である。既存の表現を踏襲しながらも、それに満足することなく新しい表現を見つけようと日々進歩している。他には映画もそうだろう。
一方、守る文化というのは伝統を大切にして、過去のやり方を守ろうとする文化である。これは歌舞伎、狂言などが含まれており、高尚で国などが必死に守ろうとしている文化である。
本来、落語や歌舞伎、狂言も『攻める文化』であったはずだ。世阿弥や出雲の阿国というのは、既存の文化、演芸では表現することができないと思い新しい表現の形として始まったものだ。そこから女を歌舞伎に上げることや、色っぽいものを禁じたり、時には解禁したりして今に至る。
私が考えるに日本の文化というものは基本的に『大衆が見て面白いもの』が文化として成立している。歌舞伎、狂言、浄瑠璃、浮世絵、落語、これらは庶民の楽しみであり、庶民のためのものだった。
だが、いつからか歌舞伎や狂言と言った文化は国が保護して、守り抜くための文化になってしまった。それはその表現の芸術性が認められたのだが、すると途端に庶民が楽しむものではなくなってしまう。本来歌舞伎などは、今では映画を見に行くような感じで気軽に楽しむものだ。だが、そのように守る文化になってしまうと、まず大衆に理解できるようにアレンジを加えることを恐れてしまうし、また理解できない大衆を『教養のなさ』で非難する風潮ができてしまう。
落語心中でもテレビが馬鹿を生むという話が出てきたが、本来大衆文化の演者や表現者が大衆を馬鹿にすることは許されることではない。なぜならば、相手にするお客こそが大衆だからである。
だが、そうであることを忘れて良し悪しがわかるお客だけを相手にするようになったら、まだ未熟なお客はその文化からそっぽ向いてしまう。そしてお客のいなくなった大衆文化というものは衰退していくしかない。
私は日本において落語などの古典大衆文化が廃れていく要因は、この閉鎖的(あるいは伝統的)とも言える守りの文化にあると考えている。落語はまだ大衆文化であると演者が根っこから理解しているし、桂文枝、笑福亭鶴瓶などの落語家が普通にテレビに出てバラエティ番組で活躍しているし、その姿はお笑い芸人とあまり変わらないため親しみやすいこともあって存続しているが、歌舞伎や狂言などは後30年もすれば滅んでしまうような気がしている。
そう考えると人間国宝に選ばれるということも考えもので、それは国がその文化の芸術性を認めたということだが、そこまで行くともはや大衆演芸ではないのかもしれない。柳家小さんが人間国宝に選ばれた時点で、もう終焉の足音はしていたのかも。
(現に今でも大衆文化として成立している小説、映画などからは人間国宝は選ばれていない)
その意味では助六が言ったことは私は正しいと思う。
立川談志が脱退したり、もめにもめた落語協会のゴタゴタも、結局は大衆から離れた論理で始まったことだし、その体質を変えなければ何も変わらなかった。
だが、助六は人望がなさすぎた。ここは身から出た錆ということだろう。
そこから考えると10話の冒頭で少年を「芸人なんて下賤な商売をするもんじゃねえ」と帰す場面が出てきたが、この辺りの意識も今はすっかり変わったよなぁなんて思ったり。
ちょっとした小話だが、昔は漫才やマジックというものは寄席で見るネタだった。
しかし、寄席の中心はあくまでも落語であり、漫才などは邪道とされていた時代の話だ。演目を並べたときに、落語とその他の漫才などが一目でわかるように、落語以外の演し物には色付きの文字で名前などが書かれていた。それが王道から外れたものという意味の『イロモノ』の語源になったと談志が本に書いていた。
でも落語も下賤な商売、なんて言われていた時代から人間国宝が出るほどになるんだから出世したもんだなぁ。
結構この部分は歴史から読み解くと面白いのだが、今回は長くなるのでカットさせてもらう。
なんだか9話の感想ばかりになってしまったなぁと思いつつ、あとラストひと月の今作を楽しんでいこう。