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物語る亀

ネタバレありの物語批評

小説を書くならば考えなければならない他媒体との違いと小説の未来 上

物語論

  今回は小説について考えていくことにする。 

 なお、個人でグダグダと考えたことなので、学術的に正しいことを知りたい方は、即刻このブログを閉じることをお勧めする。 

(情報化社会とは調べるだけでなく、その情報の真偽すらも判断する能力が問われる社会であるのは言うまでもないだろう)


 1 小説の『情報量』 
 私が子供の頃に「漫画を読むとバカになる」という話をよく聞かされた。それに対する科学的なデータもとって、脳内を写したスキャンの図で、小説を読んでいる時と漫画を読んでいる時にどこが働いてどこが休んでいるか、はっきりと写した図があり、それを見る限りでは確かに漫画を読んでいる時には頭をほとんど使っていないように見えた。 
 私などは当時から自分の意見に素直すぎて、世間からは捻くれているように見える子供だったから、


 「いやそんなの一面でしかなくて、例えば料理している時や、旅行、運動、ダラダラ寝ながらテレビを見ている時は脳にいいんですかね?  
 そもそも脳に良いって意味はなんですかね?  
 脳に良ければストレスをいくら溜め込んでもいいんですかね?」  


 なんて思って実際口にするような嫌な子供だったが、今更ながらその疑念は大当たりしていたようで、養老孟司などが漫画も脳に良いよと言い始めるとこの論調は一気に影を潜めた。   
 この意見自体は教育者の意図がありありと出てしまったデマだが、実はこれは表現としての小説の形態をよく言い表しているように思う。

 
 小説を構成するものは何か? 
 それは文字と空白だけである。そこには絵もなければ、音もない、味もなければ、匂いもない。徹底的に視覚の、しかも文字にだけ頼ったメディアである。 
 これは当たり前のようだが、中々面白いもので、他のメディアと比べてみても情報量は圧倒的に少ない。例えば映画、ドラマ、アニメならば動画という形で視覚的に我々に情報を送り込むし、音楽や声といった形で音声情報もついている。音声情報がない漫画であっても、絵で書き込まれた情報量の多さは小説の比ではない。 
 それでは試しに、ワンピースの一巻の表紙を見てもらう。 

ONE PIECE  1 (ジャンプ・コミックス)



 それではこの表紙の情報量に負けないように、私も言葉だけで挑戦していきたいと思う。 


 『中央にいるのは赤い袖なしのシャツにデニムの半パンツ、草履を履き、トレードマークの麦わら帽子を被った主人公の少年ルフィ。同じ船に乗るのは白の半袖のポロシャツに緑の腹巻、黒いズボンに足袋を履いた青年ゾロ。その手には酒瓶が握られており、その横には愛用の刀が三本、船のヘリに立てかけられている。その横にはオレンジのショートカット、ボーダのポロシャツに、オレンジのミニスカートを履いた少女ナミがルフィの方を向いて笑っている。その周辺ではカモメたちが飛び交っていて、その中の一匹がゾロの酒にハートマークを出しながらそのおこぼれを狙っているようだ』 

 ここまで描写してみても、情報量は圧倒的に漫画の絵の方が多く、しかも何よりも楽しい。同じ紙とインクで表現する媒体だとしても、文章と絵ではその情報量は全く違うわけだ。 


 ではこれは小説にとって不利なことなのだろうか? 
 短所は長所といったもので、この情報量の低さは必ずしも小説が劣っているという話にはならないのである。 
 情報量が少ないということは、それを補わなければならないということである。それを補うのは『想像力』である。そのため、小説を読むという行為には、本編に書かれていないことを想像し、考えて補完するという必要性が初めから備わっている。それを『行間を読む』ということに繋がるのだろう。 
 いやいや、私はそんなこと考えながら読んでないよ、という人でも、おそらくは慣れているうちに人物、場面、シュチュエーションなどを無意識の中で想像しているはずなのだ。なので本を読みなれない人にとっては小説はただの文字列にしかすぎず、眠くなってしまうのも無理はない。 
 今の中高生たちが小説を読むきっかけになるものの多くはライトノベルだと思うが、それも理にかなった話であり、その内容がキャッチーでポップで読みやすいのもの当然あるだろうが、挿絵がつくことによって情報量が普通の小説よりも格段に多く、読みやすいというのも理由の一つだろう。 
 慣れてしまうと小説の情報量の少なさはあまり気になることもなく、想像の余地も大きいためにはまり込んでしまう傾向があると思う。 


 2 表現形式の違いが生み出す情報量の差
 表現の歴史は主に情報量を増やすための試行錯誤の歴史だと言ってもいい。 
 スタートの段階では紙と文字の言葉による表現形式(二次元的表現)、もしくは演劇による表現形式(三次元的表現)以外は技術的に難しかった。しかし二次元的表現では、絵が生まれ、絵を複雑化し、それを何作もつなげて見せて、文字と合わせて漫画や絵本のような表現として進化させていく。そして三次元的表現では、演劇を保存することが難しかったものが、サイレント映画が生まれ、音がついてトーキーとなり、カラーになり、特撮ができて、CGができて……といった進化の道を辿っていった。 
 情報量が増えれば増えるほどに、想像の余地が減っていくため視聴者のハードルは下がっていく。そのかわりに、玄人の目からが想像する余地が減ってしまい、幼稚に見える。 
 情報量を減らせば想像の余地は増えて玄人は喜ぶが、見方がわからない素人にはてんで意味のわからない作品になってしまう。ここが表現の難しいところで、どこでバランスをとるか考えなけえればならない。 
  
 ここで一つ面白い意見を見つけたのでここで貼ろうと思う。 
 とある、まとめサイトに貼られていた意見だ。 
  
『美術史なんかにはよくでてくる概念だが 
美術には 
まず、 
・初期衝動を具現化する稚拙なリアリズムがある 
・次にそこから生まれた文化が洗練されて古典的名作が生まれる 
・次に、その文化がさらに洗練されていってマンネリ化されていく 
・最後に、その文化ではもうやることがなくなってゴテゴテと飾り立てるようになる 
・また、新たな地平を求めて新たな文化が生まれる 

ての繰り返しなわけやが 
その最初の文化の段階は、洗練された文化からは稚拙に見える、てことなんやが 
実はその稚拙に見える文化は新しい価値観に支えられた新しい文化なんだよ 
てことだぜ 

おまえが劣化に見えているものは 
本当に劣化しているのかどうか、て見極めがないとならない 
真に劣化しているのか、劣化して見えるが実は新しい価値観に支えられた新しい概念なのか 
そこを見極めなければならない 

ある文化が洗練されて成熟すると、やることがなくなっていく 
だからその文化を一旦破壊して、新たな価値観を組み上げていく 
このとき、既にある価値観は破壊されて、稚拙なものが大量に現れてくるわけだが 
その稚拙なものはただ稚拙なわけじゃなく、新しい価値観により実験が行われている 
その実験の試行錯誤から、真に新しいものが生まれてくる 

つまり、新しいものが生まれてくるには 
クソみたいな試行錯誤を積み上げなければならない、てことでもある 』 



 これを私なりに解釈するとこういうことになる。  
 同じ小説であっても世の中にはライトノベルケータイ小説から、純文学、古典に至るまでたくさんある。その中でライトノベルケータイ小説というのは、純文学などからしたら劣った表現とする動きもあるだろう。 
 確かにそれは稚拙かもしれないが、『情報量の増大化』という意味において革新的な存在であるかもしれない。小説というものの価値を新しくする運動かもしれないということだ。 
 (ちなみに、小説を書く人間は自分がどこの部分を書きたいのか理解するとより良いものが書ける。全く新しいものが書きたい人間と、既存のフォーマットを飾り立てることで重厚で完成度が高い作品が書きたい人間では、その修練法や勉強も全く変わってくるからだ) 

 

 下は明日に更新する。

 

 

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