3 小説の可能性
なぜライトノベルやケータイ小説がそこまで文章力にこだわらない文体の作品が多いのか、考えたことがあるだろうか?
確かにそれは現実的にはそこまで文才がない人物や、経験のない人物が書いているからだとするのが一般的な考え方だろう。それが間違いだと否定することは私にはできない。
だが、それが生んだ副次的な効果も実はあるような気がしている。
ライトノベルに関して言えば、そこに挿絵が入ってくる。その状態で例えば三島由紀夫の文体だとしたら、それは今度は言葉による情報量が多すぎて頭が混乱を招くのではないだろうか。むしろ絵の情報量が入ってくる分、言葉による情報量は少ない方がバランスが取れていいように思う。
(余談だが私はライトノベルと漫画は、過去の江戸時代に流行した戯作文学を現代に復活させた形態ではないかと考えている。そのため、浮世絵などから現代につながるフェチズムや表現なども散見されるし、何よりも日本人のDNAに合っているのではないだろうか)
またケータイ小説で言えば、ケータイの小さな画面でブラウザを開いて読んだ場合、言葉が詰まりすぎていると読みづらいし、頭に入ってきにくい。そして何よりも、一部の流行したケータイ小説に関して言えば、それが『実話』であることを前提とした物語であることが挙げられる。
この実話であるはずの物語が、情緒深い文章や、情報量の多い文章である場合、一気に『創作感』が出てきてしまう。だから普段日記に書くような、下手くそな表現であったほうが逆にリアリティが増すのだ。
日本において文学というものが本当に根付いたのは明治初期の文明開化の頃で、開国して世界の文学というものに触れた時、それを取り入れる運動を始めたのが初期の文豪と呼ばれる作家たちだ。
江戸時代から続く戯作の表現から脱することを目論み、二葉亭四迷などが言文一致体を作り上げ、樋口一葉や幸田露伴などが新しいものを創り出していき、夏目漱石と森鴎外が今の小説をある程度完成させた。
前回の引用で言えば
・初期衝動を具現化する稚拙なリアリズムがある
・次にそこから生まれた文化が洗練されて古典的名作が生まれる
この段階の作家達だ。
そしてそれがマンネリ化したのが大正から昭和初期にかけてであり、白樺派やプロレタリア文学、私の大好きな無頼派などが続き、そして文章をゴテゴテと飾り立てる時代が続き、それが三島由紀夫で一通りの完成系になった。最後の文豪は三島だ、という意見があるが、文豪の終わりとともに小説自体の進化の道筋は止まってしまったいたのかもしれない。
ただ、私は実はこれから小説という形態が大きく変わらなければならないような気がしている。
それは『電子書籍』の登場だ。
有史以来、小説というのは紙とインクによって誕生してきた。描くものが和紙と墨から、原稿用紙と万年筆になろうが、パソコンになろうが、読まれる媒体は同じだった。
しかし電子書籍の登場により、小説という媒体を読むということが、紙以外で読むという可能性が増していっている。その時、今と同じままであるという保証はどこにもない。
今はまだ弱い息吹かもしれないし、稚拙な表現にしか見えないかもしれないが、これが次の主流派を生み出すことになるのかもしれない。
(ちなみに下手くそながら私も小説を書いているが、手書きとパソコンと携帯では書き上がるものが全く違う。携帯で書いた文章は非常に拙いし、手書きでは主観が強くなってしまう)
4 小説のキモとはなんだろうか?
ここまで長々と書いてきて、ようやく結論に入る。
私個人が考えた結果だが、小説の書き方で大事なのは『情報量の制御』だと思うのだ。
小説がここまで情報量が少ない中で、情報量をただ単に増やせばいいというわけではない。むしろその情報量の少ない中で、想像力をかきたてることが大切なのだろう。
例えば志賀直哉が顕著な例であって、あの文体はとことん簡素に、無駄なものを省いた文体だが、これほどの文体だからこそ強い言葉の数々がある。これは情報量をなるべく少なく、必要最低限に制御した結果だ。
小説が好きな人は分厚い本であったり、言葉の使い方が独特であったり、描写が細かったり、文法が正しいなどが評価の基準になるかもしれない。だがそれは玄人向けの文章であって、素人はその情報量にはついていけない。むしろ、玄人がバカにするような(例えば山田悠介とか)作家の文章の方が受けて売れたりしている。売り上げが全てというつもりは毛頭ないが、山田悠介以上に成功している作家が果たしてどれだけいるのだろうか?
むしろその情報量が少ないことが、より物語性を引き立てたりすることがある。逆に情報量を多くして物語をややこしくすると、それが頭に入っていかない。言葉の情報量を上げたい時は、物語はより簡素にするべきだ 。
純文学の選考において、ストーリーやあらすじなんて全く意味がないという専門家もいるが、これは評価基準がストーリーが面白いか、斬新かということにないからだ。極端なことを言えば、日々の自分の日記でも素晴らしい文章で書ければ、それが純文学になる。(この辺りは一般の本読みと純文学専門家が大きく乖離している部分でもある)
情報量を物語に合わせて制御することが小説のキモではないだろうか。
またどの部分を語るのか、どの部分を想像させていくために語らないのか、情報量の制御が俗にいう『行間を読む』ということの意味である。
だが、それも今までのような紙媒体で文字を追い、小説を読む時の話である。紙媒体では制限が非常に大きいが、ネット社会であれば動画もつけられるし、音楽もつけることができる。小説というものの定義そのものを揺るがすほどの大きな可能性を秘めているのだ。
いや、文字で書かれたものだけで評価するのが小説だよ、という人もいるかもしれない。だが写真や挿絵があっても小説だというのであれば、音楽や動画があっても小説だと言える時代が来ないと、いい切れる根拠は何だろうか?
我々は新しい小説の形を生み出す可能性がある第一世代であるかもしれない、という言葉を書き記して、今回の雑考を終えようと思う。