子供の頃から格闘技が好きで、何度もテレビにかじりつくようにその試合を観戦していた。ブラウン管の奥では筋肉隆々の男たちが、己の意地と相手への親しみと憎しみを込めながら拳を振るい、その腕を、足を、首を折るかのように関節を極めていた。
なぜ人は格闘技に熱中するのだろうか?
刀を持てばどんなに屈強な男でも女性にも負ける。銃ならば子供でも殺せる。原子爆弾を使えば人類が滅亡する。それほどの科学力を人間は獲得しながらも、血みどろになりながら戦う男たちの姿に熱狂し、誰が、どの格闘技が最強なのか、正解のない答えを求めて戦い続ける。
ステゴロ最強。
時々、残酷なスポーツの世界に憧れることがある。彼らがおかれた状況は過酷であり、どんな努力も、どんな才能も、どんな経歴も全て結果の前には儚く散りゆくしかない。
それに比べると芸術や文化の世界というのは、勝敗が曖昧な分言い訳もできる。
この記事が思ったよりも読まれなかったのはGoogleが評価しなかったからであり、その評価方法が不明である以上仕方ないじゃないか、と毒吐くことができる。このGoogleを審査員なり観客なりにすり替えてしまえば、奴らの見る目がないからだ、と吐き捨てて今日も酒を呷りに行けるのだ。
だが、彼らはそうではない。
審査員は己の体、倒れたら負け、倒したら勝ち。極めて単純明快で、それゆえに逃げ道のないリングである。
この映画は、そんな男たちの物語だ。
作品紹介・あらすじ
昭和の詩人であり、舞台や映画も手がけた寺山修司の長編小説を実写映画化。前後篇の計5時間越えの大作となっており、バリカン健二と新宿新次の2人がボクシングの世界へと足を踏み入れて、その先に待つ結末までをじっくりと描いている。
主演は多くの映画の主演を張る菅田将暉と『息もできない』のヤン・イクチュンが務め、本作の売りであるボクシングシーンは圧巻の一言。
監督は『二重生活』の岸善幸が手掛ける。
街のチンピラとして詐欺事件に関わり、刑務所から出所してきた新次と、吃音を抱えながら床屋で働く健二は、ボクシングジムを経営する堀口と出会う。因縁の相手である裕二が別のボクシングジムにいることを知った新次はその復讐のために、健二は自分を縛りつける父親からの脱却を図るために、それぞれボクシングを始める。
過酷なトレーニングを乗り越えて、プロテストもクリアして順調に成長していく2人に待ち受けている壮絶な運命とは……
1 寺山修司について
寺山修司。
この男を語るのは、実は少し難しい。
私にとっては、この男は『歴史上の人物』なのだ。私が彼のことを知った時、1983年に敗血症で47歳の若さで天才はこの世を去っていた。だから私にとって寺山修司を語ることは、ともすれば坂口安吾や太宰治、三島由紀夫などを語るのと同じで、近い時代に生きた文豪というカテゴリーに入ってくる。
文豪……そう、まずここだ。
寺山修司は文豪なのだろうか? ここで意見が分かれる。確かに彼は詩という文学表現を舞台に戦っていたが、それと変わらぬ熱量で劇団を1からたちあがて舞台も主催していたし、映画も撮影していた。
そしてその早口な青森弁で少しどもりながら、テレビで視聴者に向かって小難しい言葉を繰り出すのである。
私にとっては彼は歴史の中にいる父であり、兄だった。
坂口安吾と寺山修司に傾倒し、その破天荒な生きかたを参考にしながらも、自分はその世界に踏み出すことはできず『目立たなくてもいいから、丸ぽちゃで、美人じゃなくてもいいから、平凡な人と結婚したい』と考えて、一目散にホームに向かうような人間になってしまっているのである。
かつて寺山は言ったではないか。
『書を捨てよ、町へ出よう』と。
家なんて捨ててしまえばいい。古い下着と同じさ。
そんな言葉に傾倒し、学生時代は『青少年のための自殺学入門』を読書感想文のお題に選んでいたような人間が、今となっては『帰ろうかな、帰ろうよ』と口ずさみ、一目散に家を目指す。
これは喜劇としても3流か。
ボクシングと成り上り
『街の灯』というチャップリンの映画がある。
この作品でも喜劇王は物乞いの衣装を着ながら、同じく哀れな境遇の女性を救おうと帆走するが、彼がたどり着いたのはリングの上だった。そこで筋肉隆々の男たちと殴り合い、ボロボロになって負けてしまい1ドルも稼げない。そもそも、勝ったところで稼げるのはわずか50ドル。
しかし、友人の金持ちに頼めばポンっと1000ドルも貸してくれるのである。
昔からボクシングとプロレスは特別な格闘技だった。
どちらも成り上りの手段であり、学もなければコネもない男たちは腕っ節を鍛えて、ほんのわずかな希望を胸に道場やジムへと入門するのだ。
それは寺山とて同じだった。
彼がボクシングに受けた影響は大きく、長編小説の『あゝ荒野』はもちろんのこと、映画監督作品である『ボクサー』という映画を撮っている。
もちろん、本作に登場する吃音のボクサーであるバリカン健二は寺山修司だ。
この時代の男たちは誰だってボクシングが大好きだ。北野武だってボクシングジムに通い、今でも熱心に観戦している。
男は誰だって強くなりたいものだ。三島由紀夫の肉体を見るがいい。あれだけの筋肉、小説を書くのになぜ必要なのか? あの男がそれほどまでの自らの肉体を愛していたからであり、その強さに憧れたことの証左ではないか。
しかし、当たり前ながらチャンピオンになれるのはほんの一握りである。
全てを憎め!
『お前に人が憎めるか?』
『憎めます』
『本当に憎めるか!』
『憎む』
『言ってみろ! 誰をだ!』
『親父を、お袋を、兄弟を、八重恒島を、沖縄を、畜生! 世の中全部だ!』
映画ボクサーより
ここに1冊の本がある。
沢木耕太郎の『敗れざる者たち』である。
本書の中では野球やボクシングの世界の陰に消えて行った者たちに陽の目を当てている。その中の、グレイになれなかった男を引用しよう。
主人公はカシアス内藤。彼が韓国へ行った時の話がここに綴られている。
ここで彼はその渾身の力を振り絞ることなく、ブンブンと振り回すことなく試合を終えている。実際のところは知らない。私も映像を見たことがないし、あくまでも沢木耕太郎の視点によるものだ。
その中で、最後にこのような記述がある。
『人間は、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望み続け、望み続け、しかし”いつか”はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも……。』
ボクシングが最も憎んだ者が勝つのなら、敗者に足りなかったのは恨みなのだろうか? 過酷な人生に追い詰められて、ほんのわずかな希望を胸に、人の顔を殴り続け、顔を打たれて、パンチドランカーになって一生を棒に振っても拳を振るい続けるという覚悟があってなお、それでも相手を赦し、慈しむ心がわずかでも生まれた瞬間に、彼らは負けることが宿命づけられているのだろうか?
私はそうは思いたくない。
だが、寺山はおそらくそう思い続けた。
この時代のボクシングは『恨みと成り上り』の格闘技なのだ。
寺山が愛したもの
寺山が愛したもの。
それは詩とボクシングと競馬と女だ。
そして、下町の不良や娼婦やヤクザものたちである。
彼の題材にする人物は、パチンコぐらしの親指無宿に、トルコ風呂のミストルコ、ストリッパーにガンマニアと来たものだ。毛皮のマリーはどういう話だい? 男娼屋のマリーさんと美少年の欣也の倒錯的な物語だ。
寺山は一般に下層や被差別的な人物たちを愛し、その者たちのあがきを描いてきた。金持ちや上流は変わることを望まない。彼らが下に見ている人間を社会的に拘束することで、その生活を維持している。
そんな旧来の社会構造の変革に若者は立ち上がる。
それが学生運動だった。だが、彼らは学生時代はヘルメットとゲバ棒を持ちながら警官に、社会に、親父さんに圧力をかけていたのに、少ししたら鞄と山高帽を身につけて『やあ、今日もお疲れさまです』と交番のお巡りさんに挨拶をするようになっていく。結局のところ、彼らが上流家庭や一般的なホワイトカラーになった瞬間に、それまでの主義も心情も路地に捨てて、そそくさと家に帰っていきライスカレーをほうばってテレビをじっと眺めている。
確かに寺山だって立派な人間ではないだろう。作品には盗作ともよばれている箇所もあり、さらには覗きで捕まってもいる。そんな男をまるで偉人のようにあげたて祀るかのような物言いをするのは反感を持つ人だっているかもしれない。
だが、それでいいではないか。人はハルウララを愛するように、ダメな奴でも愛するのだ。そしてその1勝に自分の人生にも勝つ機会があると思い、明日への活力を見出して、再び競馬に熱狂し、明日の生活費を紙くずへと変えて空へ投げる。
それが人間であり、寺山が愛したものだった。
2 不完全な死体
昭和十年十二月十日に 僕は不完全な死体として生まれ 何十年かかって 完全な死体となるのである
作中でも引用されていた寺山の言葉である。私がかつて文学館にて寺山の特集が組まれた時に観に行き、1番最初に出迎えてくれたことばだ。
作中ではラブホテルを改装した老人ホームで使われている。ここに暮らす方々を指しているようにも見えるし、おそらくそういう意図なのかもしれない。
だが、本当にそうなのだろうか?
新宿新次やバリカン健二が、果たして『生きている』と言えるのだろうか?
本作は発行当初の1960年代から、現代よりも少し未来へと時間を進めているのにもかかわらず、彼らの生き方はまるで昭和の時代で止まってしまっているようだった。今時、電動ではなく手動のバリカンを使う床屋が日本のどこにあるのだろうか?
あれだけコテコテのヤクザと、床屋の吃音の男というだけで、今ではコントでしか見ないような存在であり、思わず笑ってしまいそうなほどだ。
そんな彼らがボクシングと出会い、息を吹き返していく。
では、尋ねたい。
本作の中で『生きている人間』とは誰か?
風俗嬢まがいの芳子か? トレーナーの片目か? 社長か? でんでんか?
誰もが『不完全な死体』なのだ。
祖国をぶち壊せ!
マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや
祖国。故郷。
それは今の日本のどこにあるのだろうか。
少なくとも、私はそれを知らない。訛りもなく、東京という田舎者の集まりで育った身からすれば、ここは故郷とは言い難いものだった。夜になってもネオンが光り輝き、片言で立ちんぼのおばちゃんが必死に声をかける。
かつて若者が逃げる場所は東京と相場が決まっていた。
田舎の息苦しい土地で一生を生きることを想像し、年老いた両親の面倒を見ながら垢抜けない女を所帯に迎え、静かに死んでいく。その現実に恐れおののいた若者が『明日は東京に出て行くならば 何が何でも勝たねばならぬ』と飛び出していく。
現代において故郷は遠く去っていき、東京近郊で生まれた若者は出て行くべき場所を失って、今は逃げ場もなくなりゲームやネットの世界へと逃げ出さざるを得なくなっている。
政治も経済も、そしてバイアグラと豊富な食料によって性すらも老人たちに握られた若者は、せめてもの抵抗で街へと繰り出し声を上げる。だが、それすらも誰にも共感されることなく、訝しげな目をやられ、痰を吐きつけられ、チラシは足で踏み潰される。
そしてネットやゲームですらも生きられなくなった者は、かつての片桐操や永山則夫のように社会と戦うしか残されていない。加藤智大は現代の片桐操であり、永山則夫である。それ以外に戦う術をもたなかった若者の成れの果てである。
『あらゆる規制概念への造反は、やがて国家という概念への疑念へとたどり着く』
革命を志した者はやがて暴走し、何一つ成し遂げられぬテロリストに成り果てるか、または自ら命を絶つ以外に道はない。
新宿新次もバリカン健二も、帰る故郷も家も失った存在だ。
そんな彼らに革命の舞台としてリングが与えられたのは、幸運だったのだろう。
ふるさとの 訛りなくせし 友といて モカコーヒーは かくまで苦し
ふるさとも、訛りもない友といて、どうなるものですか、寺山さん。
完全なる死体へ
ふりむくな ふりむくな
うしろには夢がない
ハイセイコーもオグリキャップもディープインパクトも後ろにはいない。
ハイセイコーはとっくに死んでしまい、名前を覚えている人も古くからの競馬ファンぐらいしかいないのかもしれない。何度も何度も競馬で痛い目を見ているおじさんたちは、それでも明日への夢を買うために競馬場へと向かい、新たなるスターを見つけては、自分の人生をその馬に託す。
新宿新次もバリカン健二も、決して生きていたわけではない。
ただ、死んでいなかっただけだ。
その不完全な死体が唯一生きられる場所……それがリングの上だっただけにすぎない。
そして見世物小屋のように囲まれたリングを見つめる観衆たちは、そこに一縷の夢を見る。これは小さな革命だ。己と社会への革命を彼らに託している。
彼らはここで殴りあう瞬間だけ生きているのだ。
この物語は不完全なる死体が、完全なる死体になるまでの物語だ。
それ以上も以下もない。
ただ、彼らが生きた……それだけの物語だ。
蛇足
この時代、誰もが愛した青春漫画のバイブルといえば明日のジョーだ。
そのラストはあまりに有名で、今更言葉にする必要がないだろう。
ジョーは、真っ白な灰になって、燃え尽きることができたのだ。
その明日のジョーの有名なテーマソングを作詞したのは寺山修司である。
力石徹の死に衝撃を受け、その葬式を執り行ったのも寺山修司だった。
彼は本当にボクシングを愛し、ジョーと力石の生き様に己を重ねた。
本作とてそのまま生きていたら燃え尽きることもできなかった男が、最後の最後で燃え尽きることができたのである。だから、この物語の主役は誰だか、そして寺山はどう生きたかったのか、今更語るまでもないだろう。
私は『いつか燃え尽きたい』と願いながら、リングをただただじっと見つめる観客でしかない。ゴングを持ち去ることも、医者を呼ぶこともせず、その壮絶な生き様にただ胸を熱くし、立ちすくむした方法を知らない。
さぁ、若者よ。
映画館から飛び出そう。スマホもパソコンも放り出して、町へ出よう。
『町は開かれた書物である。書くべき余白が無限にある』
映画『書を捨てよ、町へ出よう』より
寺山修司が愛した世界を、ボクシングを見事に現代に甦らせ、そして映画として表現した岸監督に、最大の敬意と感謝を。