物語る亀

ネタバレありの物語批評

チャップリン『街の灯』の本当の主題は何か?〜作品考察と評論〜

 久々にチャップリンの『街の灯』を鑑賞したので、その感想と考察をしていきたい。

 チャップリンは私の少ない映画鑑賞歴でも特に好きな映画監督の1人であり、数あるチャップリン映画の中でも街の灯はやはり代表作だけあって非常に上手く作られている。

 映画監督としてのチャップリンの最高傑作はやはりこの作品になるのではないだろうか。(ちなみに私はコメディアンとしての最高傑作はモダン・タイムス 、人間チャップリンの集大成はライムライト を推す)

 

 ちなみに本作品は2015年12月31日をもって著作権が切れているので日本語字幕がないのでよければ、動画サイトでいくらでも見られる。

街の灯 CITY LIGHTS CPN-005 [DVD]

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 1 スタートの妙

 まず抜群にスタートがうまい。

 

 この作品はサイレント映画なので基本的にセリフはない。どうしても理解してもらわないといけないセリフは文字だけで表現されるのだが、逆に言うと文字で表現されているセリフや説明は絶対に作品の中で必要なものである。

 それ以外の2人の心情や会話に関しては字幕なしの仕草だけで理解することになる。ここに観客の受け取り方の幅ができるため、非常に面白いものなのでサイレント映画ももっと新作が作られても面白いものだと思うのだが、現代では不可能だろうか……

 

 

 ではこの作品のスタートはどうなっているだろうか。

 『平和と繁栄の記念碑』の除幕式が華々しく行われている中、その幕を取るとそこにいたのは1人の浮浪者が寝ているというコメディから始まる。

 

 この作品のスタートの素晴らしいところは、この時代のアメリカというものが如何に偽りの平和と繁栄を遂げていたのか、という風刺になっているところである。あれだけ繁栄したアメリカという国も、第一次世界大戦や大恐慌もあり一つ幕をめくれば浮浪者が変わらず存在する偽りのものでしかないという皮肉を、大上段に構えて説教するのではなく、笑いまじりのコメディーであくまでもライトに表現したということに大きな意味がある。

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 よく街の灯の話をする場合にあがるのが『花売りの娘と浮浪者の交流』であるのだけれども、私にしてみればそれはこの作品の見どころの一つでしかないと思っていて、本当の主題は他にあると考えている。これから先はその本当の主題について述べていきたい。

 

 

2 チャップリンが浮浪者の味方?

 よくチャップリンの作品を評する時に言われるのが、「チャップリンは権力者に立ち向い反骨精神に溢れている」ということだ。これは確かにそのような一面があるのだが、チャップリンの笑いが今でも通用する一流のものである要因でもある。

 

日本の笑いとチャップリン

 日本においてチャップリンの影響を受けたコメディアンというとやはりドリフターズが上がるだろう。本作を見ても志村けんやドリフターズの笑いの取り方というものが、そのままの形で詰まっている。

 特に水辺で助けようとする人が巻き込まれて落っこちるというのは、私も子供の頃に何度も見たお決まりの流れであり、もはや日本のお笑いの伝統芸能と言っても過言ではない。それを戦前に作り上げたのがチャップリンである。しかも、非常に古い時代なのにもかかわらず、きっちりとその笑いを2回以上重ねてくる『天丼』をしているのだから如何に日本の笑いの元になっているのがわかるだろう。

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 ドリフターズの基本的なコントの流れというものは教師や隊長役のいかりや長介を、他の4人が小馬鹿にしながら叱られつつもイタズラを繰り返すというものだった。この形は権力者をおちょくる部下ということになっており、チャップリンが自らを浮浪者になり権力者をオチョクルのと同じような構造になっている。

 例えばこれが逆の場合、つまり権力者が下位の者をからかった場合、それはパワハラのように見えてしまい見ている側は気持ちいいものではない。

 

 個人的なことになるが、私は関西の笑いが苦手なのだが、これは島田紳助などの一部の大御所が自ら汚れ役になることなく周囲の人間を汚して笑いを取るスタイルのように見えて、「なんだかなぁ」と思うからである。最近はお笑いも東も西もなくなってきたが、ビートたけしや志村けんなどは最後は自分が汚れることで笑いを取っていくので好感がもてる。(この辺りは趣味の問題だけど)

 

チャップリンの笑い

 話をチャップリンに戻すと、権力者に楯突いた男という扱いをされることが多い。それは確かに間違いではないのだ。独裁者 を見てもそれは明らかであるし、赤狩りにあってハリウッドを追放されてしまう共産主義者の(として見られてた)面もあり、確かに資本主義における強者=金持ちという強者を批判していたことを見えれば、そういう考えになるのは当然だろう。

 

 これは大のチャップリンファンである太田光が言及していたことであるが、チャップリンの笑いの本質というものは『浮浪者に扮したチャップリンの奇行を笑う』というものであり、つまりチャップリンは浮浪者の人間性を笑っているのである。

 現代の日本で考えて欲しい。浮浪者やホームレスに扮したお笑い芸人がその奇行や価値観の違いによって引き起こすコメディー……そんなものをテレビなどで放送することができるだろうか? 私は批判が殺到すると思うし、よほどうまく作らなければ差別的だと批判を食らうことになるだろう。

 チャップリンの笑いは本質的に残酷なものなのだ。

 この隠された毒のバランスも素晴らしいものである。

 

 

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3 金持ちと浮浪者の交流

 この作品の論評の多くを占めているのが花売りの少女と浮浪者の関係性だが、むしろ登場時間を考えれば花売りよりも重要な人物がいる。

 金持ちである。

 おそらく金持ちというのは大恐慌時代の波に呑まれて金回りが悪く、ニッチもサッチモいかないことになっている。妻にも逃げられてこの先はうまく行きそうにない、お先真っ暗でもう死ぬしかなくてもうどうでもよくなって酒を浴びるように呑み、意識が混濁してしまう。

 

 そこを助けるのがチャップリンであるのだが、金持ちが酒で酔っている時でしか友達と思ってもらえずに、酔いが醒めると追い出されてしまう。これは酔いに任せて自我を失っている時でしか金持ちと浮浪者は仲良くすることができない、という皮肉だろう。

 そこから金持ちの通う非常にリッチなお店に行ったり、パーティーに二人は参加するのだが、ここもコメディータッチなお笑いシーンであるように一見すると思えてくるのだが、その笑いの基本的な構造というのは『金持ちの世界に入り込んだ浮浪者』の姿を嘲笑するというものだ。このシーンというのは非常に面白くも残酷なものであり、世界の違いを表している。

 

 そして今でも通用するボクシングのシーンへと話は映るのだが、あれほどの苦労をしても浮浪者は勝っても50ドルしか稼ぐことはできないし、しかも負けてしまうのだから一文にもならないわけである。

 だが酔っぱらった金持ちに頼めば「彼女のことは任せろ、とりあえず1000ドルもあれば十分か?」と簡単にお金を渡してくれる。

 調べたところ当時の物価は現在の物価の約8%ということだった。つまり1000ドルは12500ドル、現在の相場で1ドル100円として125万円。ちなみに22ドルは275ドルなので約3万円ほどだろうか。

 

 危険を承知でボクシングで勝っても約5万円ほどしか稼げず、しかも盲目の花売りは3万円の家賃が払えずに苦しんでいるのにも関わらず、落ちぶれた金持ちでさえ簡単に100万円以上のお金をポンと出すことができるのである。この対比が何とも言えず涙を誘うものではないか。

 

 

4 花売りと浮浪者の関係

 では花売りと浮浪者の関係に注目してみると、ここも面白いことに気がつく。

 花売りは当然のように浮浪者に近いお金を持たない側の人間であるが、その目が見えないからこそ自分を支援してくれる優しい『足長おじさん』はお金持ちのお大尽だと思い込む。しかし、その実はお金持ちの威を借る浮浪者であり、その身には一銭の金も持ち合わせていない。

 

 浮浪者が冤罪とはいえ刑務所に入る思いをしてまで作ったお金で花売りは目を直し、その後花屋に就職することができた(もしくは余ったお金で自分で開業した)のだが、刑務所から出所した浮浪者はよりボロボロになって街へと帰ってきた。

 ガラス越しの再会を果たすが、この時点において二人はもう住む世界が違うのだ。

 

 花売りは金持ち(成功者)の側に

 浮浪者は貧乏人(落伍者)の側に

 

 ガラス張りで見つめある様子というのがそれを象徴しているように思える。

 浮浪者を目にした花売りというのはもうすでに落伍者とは世界が違うから「あの人私のことが好きみたい」なんて少しおどけながら、店の同僚に話しかける。そこには見下すような視線すら感じられる。

 そんな相手に対して好意で花を一輪上げた時に彼女は「you?」と呟くのだ。

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 このシーンは映画史史上最高のラストシーンの一つだが、この時の解釈は様々あるものの、スタートから貫かれている『金持ちと貧乏人の対比』を用いると以下のように解釈することもできる。

 

 

 金持ちと浮浪者は、金持ちが自分を見失った時でないと同じステージに立つことができない(友人になることができない)

 だが、同じ不遇の身にいる浮浪者と盲目の花売りであれば自分を見失った時でなくとも同じステージに立つことができる(友人、ないしは恋人になれる)

 では、盲目の花売りが成功し、金持ちの側へと回った時、浮浪者と以前と同じように同じステージに立つことができるのであろうか?

 

 

 ここがこの作品の主題のように考えている。

 だからこそ、本作においてラストシーンのチャップリンの演技も、花売りのヴァージニア・チェリルの演技もなんとも筆舌しがたい絶妙な演技になっている。(映画でしか表現不可能な、映画的な映画になっている)

 そしてあえて浮浪者と告げずに立ち去る、Noと言って否定するなどの美しいEDにせず、この先は観客に考えてもらうような、なんとも言えないモヤモヤとした終わり方にしたのだろう。

 

 さて、この二人はこの後どうなるのだろうか?

 夢の王子様が単なる浮浪者と知った花売りの心情は?

 正体を告げた浮浪者の様子が示すものとは?

 

 それは恋愛や理想の話だけではなく、成功者と失敗者は手を取り合えるのかという話でもある。

 

最後に

 最後に、個人的に気になったのはさり気ない1シーンであるのだが、おばあさんが花を売っているシーンである。娘の代わりにおばあさんが花を売っているのだが、通りに人はたくさんいるにもかかわらず、買って行ってくれる人は誰もいない。当然のように浮浪者も現れない。

 ここに社会の皮肉(美しく若い娘と老婆の対比)を感じてしまった。ほんの10秒もない、もしかした5秒もせずに切り替わってしまうカットであるが、なぜチャップリンがこのシーンを入れたのかと考えるとそれも中々興味深いものだ。

 

 他にもCity Lightsという題名も思わせぶりだよなぁ……これを明るい街灯と取るか、暗闇でポツンと光る街灯と取るかによって意味合いは変わってくるし。

 

 ちなみに私ならばラストシーンは「違います」と言って別れる物語にしてしまいそうだが、それだと美しすぎて多分歴史に残らなかったろう。

 古いけれども本当に偉大な作品だ。

 

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チャップリン自伝 上 ―若き日々 (新潮文庫)

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