物語る亀

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物語愛好者の雑文

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』感想と考察、そして『愛』の分析 

 久々にこの作品を語ってみたいなぁ、と思い立ち記事を書くことにしてみた。

 なぜ今更になって『砂糖菓子の弾丸』なのかと問われると、「暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてつらっとしてある日大人」になった、今の私だからこそこの作品を読み返す意義があるように思ったからだ。

 10代の頃の狭い世界に囚われた、ナイフで少しずつ身をそぎ落とすような切迫した人生というのはおそらくもう二度と送ることはできないが、それを忘れないように思い返すことはできる。

 この作品は私が子供であったことを思い出すための備忘録である。

 

 なお、本作は10年ほど前の作品であるが、途中まではネタバレ無しで書いていくので、レビューとして読みたい方はネタバレ注意のところで引き返してください。

 

    

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない  A Lollypop or A Bullet (角川文庫)

 

作品概要・あらすじ

 

 2学期が始まってすぐの頃、田舎の何もない小さな町の学校に、一人の女の子が転校してきた。

 名前は『海野藻屑』

 その子は芸能人で過去にヒットソングも発表した海野雅愛の娘で、ブランド品で身を包んだような都会的な可愛い女の子だった。

 大変な名前だと思った主人公山田なぎさは、初対面の彼女から「死んじゃえ」という暴言を吐かれる。おかしな子だと思いつつもなぜだか好かれてしまったようで、藻屑は「友達になって」と告げてきた。

 

 「僕は人魚なんだ」

 女の子なのに僕という一人称を使い、さらに人魚だと嘯く彼女はクラスからも浮いてしまっているが、当の本人は一切気にしていないようであった。生きる上で意味のない言葉『砂糖菓子の弾丸』をポコポコと放つ藻屑は、実は大きな戦いを繰り広げていたのだった……

 

 

 

 

 

1 桜庭一樹のターニングポイント

 

 本作は直木賞作家、桜庭一樹がライトノベル作家から一般文芸へと移行するきっかけとなった作品として有名である。元々アニメ化も果たした『GOSICK ―ゴシック― 』シリーズにてミステリーライトノベル作家としての地位も着々と築き上げていた頃であるが、本作は発売開始直後の売り上げが非常に大事なライトノベル業界で、じわりじわりと伸びていく異例の売れ方となった。

 そして本来ライトノベルというジャンルはシリーズものが強いのだが『このライトノベルがすごい』にて3位に輝くなど注目度は徐々に上がっていった。

 2000年代のライトノベルを代表する作品といっても過言ではないだろう。

 

 また直木賞受賞作『私の男 』と父親と娘の関係性などが繋がることもあり、本作と私の男を並べて語る評論もある。

 一度は少女漫画のような萌えキャラの挿絵が入ったものが発売されたが、桜庭一樹が一般文芸に移行するのと合わせて作品から挿絵を除外したものも発売された。

  元々の挿絵はこちら(私も買いづらくてしょうがなかった)

 

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

 

桜庭一樹の文章力と世界観

 

 この作品を一つ読めば桜庭一樹の独特の世界観と文書力というのがお分かり頂けると思う。

 当然、少年少女向けのライトノベルなのでメインターゲットは中高生とあってキャラクター付けは一般文芸よりもアニメや漫画寄りのエキセントリックなものになっているので、相性はあるかもしれないがすんなりと頭に入って来やすいだろう。

 

 私が本作で思わず唸ってしまうのは、キャラクター描写等もそうなのだが、小物やちょっとした知識の使い方にある。

 例えば藻屑はよくミネラルウォーターを飲んでいるのだが、田舎町の子供にはこれが理解できない。そんなものをグビグビとことあるごとに飲む場面が何度も繰り返し描かれている。

 これはミネラルウォーターという存在一つを抜き出すことによって、この田舎の住人とは違う都会的な存在=異質な存在ということを演出している。

(しかもこれが深い意味を持つ)

 

 小ネタというか、豆知識でいうとやはりストックホルム症候群であったり、答えが五文字の問題だったりというものは、読者の知的好奇心を刺激し『少し賢くなった』ような気がしてくるという、最近売れる小説に良くある条件を備えている。

 これらの問題は知ったら誰かに話したくなるものでもある。だが、今の時代ではネットで簡単に調べて知ることのできてしまう知識であるから、ネットがまだ一般化し始めた2004年というのはこのような問題や知識を取り入れるには最後のチャンスだったのかもしれない。

 少なくとも、ストックホルム症候群の話をすると「ああ、知ってるよ」という読者も当時に比べたら多くなっているのは間違い無いだろう。

 

 あとは細かい部分になるが途中映画を見に行くシーンで鑑賞しているのが『死刑台のエレベーター』というのもセンスがあって好き。桜庭一樹の作品からはどことなくフランスのような雰囲気が漂ってくるので、この選択はベストのものだと思う。

  

 

 ここから先はネタバレになるので、未読の方はこちらの記事をどうぞ

 

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以下ネタバレ

 

2 愛の物語

海野藻屑の『愛』

 

 本作のヒロインである海野藻屑は倒錯した愛を信じている少女として描かれている。初めて出会った山田なぎさに対して「かわいい」と思っているのにも関わらず、口をついた言葉は「死んじゃえ」だった。

 これは海野藻屑の育ってきた環境に原因がある。

 

 母親が出て行った時に一緒に出て行くという選択肢もあったのにも関わらず、藻屑は父親と共に暮らすことを選んだ。あれだけひどい虐待を受けているのにも関わらず、なぜそこから逃げ出そうともせず、一緒にいて殺されてしまったのか?

 もちろん、これは作中ではストックホルム症候群による『脳の間違った作用』として片づけられる。

 しかしそれ以上の理由としてあげられるのが、藻屑にとって愛とは『虐げられること』であり、傷つけられることだったと考える方が自然だろう。

 

 幼い頃から障害を持つほど粗雑に扱われていた少女は、それでも父親の愛を求めていた。母親に関しては特に記述がないが「落ち目の元美人」という発言からも藻屑は母親を良く思っておらず、問題があると思いながらも連れ出さなかったことから、母親も藻屑に対する愛は薄いのだろうと推察できる。

 そんな中でずっと痣ができるほどに体を傷つけられ、暴言を浴びせられた少女は、やがてその行為こそが『愛』なのだと悟ってしまう。

 そしてその痣などを隠すために嘘にもならない『砂糖菓子の弾丸』を吐き続けた。

 

 藻屑にとって痛いことは『愛』であり、だからこそ「好きって絶望だよね」という言葉が出てくるのである。

 

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海野雅愛の『愛』

 

 では一方の父親である海野雅愛の方へと視点をずらしてみよう。

 もちろん、海野雅愛は父親として失格どころか、人間として生きていけるような人格を持ち合わせていない、全ての元凶である悪と断罪すべき人間である。

 しかし、藻屑が憎くて傷つけたのかと問われると、それは違うのである。

 

 かつて一世を風靡した名曲『人魚の骨』の3番が実は愛した人魚を食べてしまうという歌詞であると、山田なぎさは冒頭で指摘しているが、この歌を書いたのは藻屑が生まれる前の話と思われる。

(ちなみに人魚の骨のモデルとなった歌はCOCCOの強く儚い者たちなのかな、なんて思ったり。あれも美しい曲と思いきや、二番の歌詞がエキセントリックだし)

 

 海野雅愛にとっての愛とは、実はそのように強く愛する者や美しい者ほど、傷つけてしまうというものだった。

 

 これは現実のDVを振るう男にも共通していることで、暴力を振るうだけならば誰でもいいにも関わらず、なぜ家族にそれが向かうのかというと、それが愛情表現だと深層心理において勘違いしているからだという説がある。

 彼にとっての愛とはやはり同じようなもので、だからこそ人魚は食べてしまうし、藻屑もポチも殺してしまった。

 

 私が本作を読んで強く感銘を受けたのは娘や家族に暴力を振るったり、殺してしまった原因が憎いからというものではない、ということだ。

 この手の親が異常者であり子供などを監禁する作品において多いのは、子供を疎んでいたり、すでに頭がおかしくなってしまっているからという行動原理の下に描かれていることが多い。もちろん海野雅愛も頭がおかしくなってはいるのだが、その行動原理は彼の理屈を理解すると、至極まっとうなものに思えてくるのだ。

 

 彼はポチを殺した後に「さよなら、ポチ」と書いた紙を置いていたし、その埋葬方法はともかくとして葬る意思はあったのだ。

 そして彼は藻屑にも「さよなら、もくず」と書いた紙を置き、そしてボロボロと涙をこぼしていた。殺したくて殺すならば、そういう行為は一切しないはずである。

 

 だから、このお話というのは

 

 痛みを与えることでしか愛を伝えられない父親

 痛みを受けることでしか愛を受け入れられない娘

 

 この2人のどうしようもなく閉じた親子愛の物語でもある。

 

 

 

 

3 ラストの言葉について考える

 

 先生が最後にいう言葉、それは「だけどなぁ、海野。おまえには生き抜く気、あったのかよ……?」というセリフを読んで、今の私は藻屑が死んだことに安堵すらあるのだ。

 

 現実でもある話だが、DVを受けた子供というのはDVをする人間を配偶者に選ぶ傾向があるという。これはダメンズ好きという言い方もできるが、魅力的な人がどうしようもない人間に何度も引っかかるということはよくある話である。

 では藻屑が生き延びたとして、その後の人生はどうなっていたのだろうか?

 

 父親の暴力という愛を拒絶せず、ただ黙って受けていた少女。

 花名島と倒錯的な行為を行ってしまった少女。

 その子が迎える『未来』とは、必ずしも明るいものだと私には思えない。

 

 おそらく、藻屑は聡明な少女だったから、自分が愛した人に対して父親と同じことをするかもしれない、もしくはされるかもしれないということを覚悟していたのだろう。花名島は唯一父親以外で暴力という『愛情行為』を働いた人間だからこそ、藻屑は暴力で返答したのだろう。

 そしておそらくそれが愛情表現でないことも、その時には理解していた。

 

 私には藻屑が生きようとする気があったようには全く思えない。

 むしろ、父親の手で死ぬために最後に家に戻り、山田なぎさに対して本当の笑顔を向けたのだと思う。

 

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

 

誰がうさぎを殺したのか

 

 この問題は諸説あるので私なりの考えを書くと、やはりこの犯人は花名島と考えるのが自然だろう。

 そもそも障害のある藻屑にうさぎを捕まえるということは難しいし、朝早くに登校してきたというのも花名島の証言しかない。

 しかも、藻屑に対してそれを告げた後に藻屑は「なんでそんなに怒ってるの?」と言葉を返した。これはおそらく、花名島が何かを話しているのは理解しているが、左から話しかけられたために、何を話されたのかは理解できていないのではないだろうか?

 

 藻屑は聡明な少女である。

 鍵の番号から花名島の誕生日まで知り、さらにそれが山田なぎさの好きな男と推理したほどの女の子が、うさぎの頭を自分のカバンに入れるということをするだろうか?

 そのようなことを考えると、やはり犯人は花名島となるのが自然である。

 

藻屑にとってなぎさとは

 

 唯一どれだけ深い関係になっても暴力を振るわなかった存在、それがなぎさである。

 おそらく、藻屑にとってなぎさとは母であり、姉であり、仲間であり、もう一人の自分だったのだろう。

 どれほど『砂糖菓子の弾丸』を浴びせても殴ることもなく否定することもなかった存在。

 だからこそ藻屑は深くなぎさを求め、そして先ほども述べたことではあるが、最期はなぎさに本当の笑顔を見せたのであろう。

 

 

最後に〜私が本作を愛する理由〜

 

 私は砂糖菓子の弾丸を撃ち続ける彼女たちの戦いを、その肌感覚で知っていたような気がする。

 そして私自身もまた、大人の実社会に対して何の効果もない砂糖菓子の弾丸を撃ち続けていたようにも思う。だが、今となっては……大人となり、実弾を手にして相手と立ち向かうことができる『大人』となった後に、当時の切実な感覚を思い出すことはもう難しいものになっている。

 

 だが、サバイバーはこの世からいなくなったのだろうか?

 砂糖菓子の弾丸の射手は絶滅したのだろうか?

 答えはNoである。

 

 物語とは所詮砂糖菓子の弾丸でしかないのかもしれない。結局は空想であり、妄想であり、虚構でしかないのかもしれない。

 それを求める行動には意味がないかもしれない。だが、虚構の弾丸を撃ち続けることでしか戦えない子供達もこの世には多く存在している。そして、かつての自分がそんな存在であったことを、時折思い出す必要があるのだ。

 

 物語の意義とは『願いと祈り』であると、私は信じている。

 だから、彼女たちの、そしてかつての私の戦いを忘れないように、そして現代の海野藻屑のような子供たちが少しでも戦えるように、私は本作を通じて祈るしかない。