最近書店やらTwitterやらで話題となっていたので、とりあえず購入してみた。新書や学術系、明治から昭和にかけての短編小説ばかり読んでいたので、ここまで纏まった長編小説を読むのは久しぶりな気がしてくる。
表紙は大好きな浅野いにおだったこともあり、かなり期待値は高くなっている分少し厳しい物言いになるが、ご容赦願いたい。
今回は途中までネタバレなしで書いていくので、そこまでは未読の方でも読み進めてOK。後半からアクセルを踏んで、かっ飛ばしていこう。
それでは感想スタート
1 竹宮ゆゆこについて
竹宮ゆゆこといえば、何と言っても代表作である『とらドラ! 』がまず第一に思い起こされるであろう。アニメが放送されたのは2008年から年をまたいだ半年間だが、間違いなくあのシーズンでは一番の人気を誇っていた。監督の長井龍雪、脚本の岡田麿里の影響は大きいものの、もちろん原作の良さがあってのものである。
とらドラ完結後はまたもや『ゴールデンタイム』にて再アニメ化を果たすなど人気ラノベ作家の仲間入りを果たしたと言っていいだろう。
2作以上アニメ化したラノベ作家(同一シリーズの2期ものは除く)というと、あかほりさとる、水野良、時雨沢恵一、賀東招二、小野不由美、成田良悟、西尾維新などの錚々たる面子が名を連ねている。
ゴールデンタイムがとらドラの大ヒットを受けての製作だとしても、このラノベが乱立して、数が相当数に及ぶ現代で2作目もアニメ化されるというのは、やはり竹宮ゆゆこの実力大きく関与している。
近年は一般文芸へと舞台を移し、新潮で書くのはこれが2作目とのこと。ちなみに私は前作は未読。
2 ネタバレなしで感想
私はライトノベルは5年ほど前に読むのをやめてしまった(成田良悟や渡瀬草一郎などの一部の作家以外は新しく探す気がない)人間だという前提で、この感想を読み進めてもらいたい。
つまり、この作品がどんなに話題になろうとも、ライトノベルレーベルであったら手にすることはなかった人間である。
勘違いしないで欲しいのは、ライトノベルというものを馬鹿にしているわけではない。ただ、その対象年齢から外れてしまい感覚が合わなくなったのと私が読んでいた時代の作品からすっかりとジャンル自体が別物になってしまい、過去の作品を懐古するだけの感想になりそうということである。
一般的には『卒業した』というべきなのだろうか。
やはりライトノベルは学生時代に読むべきものだし、その年代に向けて書くものだ。
だからラノベ作家が一般文芸に舞台を変えたならば、私も対象年齢に入るために手に取る気になるのだ。現に桜庭一樹も有川浩も、角田光代だってスタートはライトノベル(ジュブナイル小説)であったが大人向け娯楽作品で人気を博する作家である。
少し厳しい言い方になるが、本作を読んでいる最中の感想といえば、「新潮から出す必要があったのか?」というものだった。
どうしても文体であったり、そのキャラクター設定や語り口というものがライトノベルに近いものに感じられてしまい合わなかった。元々私は竹宮ゆゆこの作品はとらドラを読んでいるのだが、1巻の途中で断念してしまっているため、文体等の相性の問題かもしれない。
(私は文章は上手い下手、ではなく、合う、合わないで評価するべきだと考えている)
やはり、もうラノベを読まなくなってしまった人間には、このような小説表現に違和感がある。これがまだ10代の頃であったならば、もしかしたら絶賛しかたもしれない。
それではここから先はネタバレになるので、読んでいない方は以下の記事をお読みください。
ちなみに今作の評論を有名人ものをチラッと覗いたら、一番よかったのは市川紗椰の論評だったかな。インテリであり、サブカルの視点も持っているし、文章も面白いので作家、エッセイストの才能があると思う。(ユアタイムの評判は悪いが起用したくなる気持ちはわかる)
以下ネタバレ
3 キャラクター描写
青春小説自体が嫌いというわけでもないのだが、やはり今作のような主人公の言動というものに、私は一切の感情移入することができなかった。
それはギャグ調の会話もそうなのだが、主人公の行動原理やその他多くのことに、正直言うと「ないわぁ……」と思ってしまった。
一番違和感があったのは主人公がいじめれている玻璃をトイレから助けてあげるシーンで、頭から水を被った彼女を救った後にクリーニング屋へと向かう場面である。
この場面で「どうしたの?」と尋ねるおばちゃんに対して、あろうことか主人公自身が「この子、いじめられているの!」と告げてしまうシーンがある。
ここで私は頭を抱えてしまった。
私の中でいじめられているという事実というものは、出来るだけ隠しておきたい事項だと思うし、作中でも語られているが、いじめに遭っている人というのは助けてくれる人に対しても噛み付いてしまうという習性があるように考えている。
それは本作の中でも玻璃の行動から、助けた時に奇声をあげるという明確な拒絶があったのにも関わらず、それに構わず助け出すのはいいのだが、それを見ず知らずの他人に簡単に言ってしまうというある種の『無自覚な身勝手さ』がこの主人公からは感じられてしまう。
それは確かにヒーローらしいといえばヒーローらしいのだが、私の趣味には合わなかった。
(自分が玻璃の立場ならば、ただの辱めに思えてしまい救ってくれた主人公を逆恨みするかも)
それから、いくら助けてくれたといっても急速に仲良くなりすぎだよなぁ、とも思った。本来あってもいい、二人が仲良くなるためのエピソードがいじめを助けてくれたから、というものだけではなく、もっと精神的な共通項を親がいないとか、似たものを抱えているという彼の独白(地の文)による説明でなく、描写として見せてくれたら納得いったのかもしれない。
後は個人的嗜好だが、玻璃よりも尾崎の方が魅力的だった。
なんというか、一般文芸であるような『人物描写』ではなく、あくまでも『キャラクター描写』でしかなかったのが残念か。
4 世界観とモチーフとなった作品
やはりこの作品を読んでいる最中から思ったのは「あ、これ桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』だな」ということだ。
多分10年以上前くらいにライトノベルを読んでいた方は、桜庭一樹の本作品のことを誰もが思い出すのではないだろうか。それから、『イリヤの空、UFOの夏』『半分の月がのぼる空』のテイストも感じた。(おそらくこれは少年の一人称で、特殊な女の子を救い出す話だからだろう)
その意味においては、10年前のライトノベルを現代風にアレンジしたらこのような作品が出来上がるのかもしれない。
こういった作品を読んできたスレた大人には、やはりこのキャラクターや世界観に酔わせて欲しいという思いがある。上記作品の中でも本作に一番近いテイストは『砂糖菓子』であろうが、この作品は海野藻屑というエキセントリックな少女が巻き起こす、切ないラストシーンが大きな話題を呼んで、桜庭一樹が一般文芸から評価されるきっかけになった小説だった。
この作品の場合は、海野藻屑のエキセントリックな設定に加えて、ファンシーな世界観も合わさっているために、違和感なくその世界観に酔うことができた。
それは『イリヤの空』にしろ、『半分の月』にしろ、その文体やキャラクター、その世界観等が一致していたのだ。
(私と相性が良かっただけとも言えるし、年齢的なこともあるだろうが)
ただ、本作は玻璃はエキセントリックに描かれているし、主人公は無自覚な身勝手さで玻璃を救うヒーローとして描かれており、主人公を取り巻く登場人物もテンションが高めである。
しかしお話自体はそこそこ重めだし、リアルなテイストであるのに、そのキャラクターのテンションなどが異質すぎて一致していなかった。
このキャラクター像で描くのであれば、もっとラノベの世界観で描いてもよかったし、テイストを守りたいならばキャラクター描写でいると、せめて大人は感嘆符(!)を使わずに描いてもよかったのではないか?
それがギャップにもならず、ちぐはぐな気がしてしまった。新潮という一般文芸である程度大人向けに書こうと試行錯誤の結果だとは思うのだが、どうにもうまくいっているようには思えない。
(ラノベなら有りだと思うし、ここまでのことは言わないけれども、本作はラノベではないし、佐伯泰英や海堂尊と同じ場所に並ぶので同じ基準で論じている)
5 構造的特徴
本作の最大の特徴であり、問題点はここにあると思う。
私は本作を『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』に近いと思ったが、その根幹は『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』だと感じた。
主人公の一人称という語り口なのにも関わらず、それがどこまで本当でどこから嘘なのかわからない。基本的に語り部であるのは清澄なのだが、その後描かれる一人称の存在は別人ということでもある。
この語り部は一体誰なのか、という叙述的な構造的特徴を含んでいる。
この清澄と思われる語り部を『嘘つき』と読むこともできるし、また『別人』として読むこともできる。このパートで語られているのは誰であり、このパートはどんなお話なのか、実は読み返してみると大きく変わるのだろう。
この辺りの解説は他のブログが詳しいのでそちらに任せるが、構造的にはそれなりに複雑なことをやっている。
が
じゃあそれが何らかの意味があったのか、と問われると少し疑問があるわけで、この構造であるならば『イニシエーション・ラブ 』のような構成などにするのが効果的だろうし、私は帯を見るにその展開を期待して読んでいた。
だが、そのパターンとするならば、ラストとしてあの文章では弱い。
そもそも最後の方がグチャグチャに入り混じってしまうので理解するのも一苦労である。一人称の語り部が変わるというのは視点の変更であり、読者に混乱を招きやすい。伊坂幸太郎で言えば『グラスホッパー』のように規則性を持たせるなど、単純化しなければ読者がついてこれないだろう。
「何回も読み返しました」というレビューが多いが、それは逆に言うと「読み返さないとわからない作品」となってしまっているとも言える。
(それは作者の文章力ではなく、お前の読解力だろうと言われたらその通りかもしれない。何度も言う通り相性が悪いのかもしれない)
その意味においては伊坂幸太郎の推薦文にあった「構造的野心」を褒め称えるというのはわかる。伊坂幸太郎自身が表現するのも人間がうんたらということではなく、小説の構造的展開の妙だし、そこに魅かれたのは納得できるものだ。(伊坂幸太郎の推薦文って小説の構造だけを褒めていて、本作を褒めているようには思えないし)
この構造にハマる人がいるし、この小説を激奨する人もいるのだろうが、私はこのような構造的野心を持って創作するならばもっとシンプルに分かりやすいものにして欲しかった。
ラストや構造などが素晴らしい作品だと貫井徳郎の『慟哭 』などとどうしても比べてしまうし……
殺された『2人』
では最後に、殺された2人というのは誰のことなのか考察していきたい。
これは純粋に考えるならば、作中で言及されている通りお父さんとあの人と最後に語った2人である。
ただ、本作は地の文が信用できないために、これを信用していいのかは疑問が残る。(そもそも真っ赤な嵐ってなんだ? 真っ赤な嘘のもじりか?)
なので、考えようによっては玻璃と濱田清澄と読み取ることもできる。名前を変えてしまったことを『殺された』という表現したとしたら、玻璃という存在はすでに死んでいるのだ。(実際「あの子は死んだ」と書かれているし)
そう考えるとこの作品は、一種の心中物と言えるのかもしれない。
そのような読み取り方もできるような余白があるのはいいのだが、ただ、それが複雑な構造故のものではなく、シンプルに残して欲しかったなぁ。
追記
コメントがあったので少し追記する。
追記を書いている現時点においては、あの描写の通り殺されたのはお父さんとあの人、という風に受け取るのが正しいと思っている。
ただ、その前に289Pで「あの子は死んだ」と玻璃の死を暗示するような言葉が書かれているにもかかわらず、そこを言及通りとするならば野心的構造の意味が大きく損なわれる気がしてしまう。作者がどのようなつもりで書いたのかわからないが、もし本当に二人が言及通りならば本作の野心的構造が何のために導入されたものなのか? ただ単に分かりづらくしただけのお話になってしまうと思うのだが……
最後に
これから先竹宮ゆゆこがどのような作家人生を歩むのかはわからないが、本作のような野心は是非とも続けて欲しい。だが、一般文芸に本当に行こうとするのであれば、森見登美彦や桜庭一樹みたいに世界観すらも特殊にするか、キャラクターをもっと抑えたほうがいいと考える。
ライトノベルレーベルならば上記のような文句は言わないし、「ありだよね」と言えるかもしれない。しかし『ラノベ作家の竹宮ゆゆこ』ではなく『一般文芸の竹宮ゆゆこ』になるのであれば、スタイルの変更を求める読者もいる。現にターゲット層は中高生から大人になっているのだから。
それだと魅力がなくなるならば、一般文芸に行かず『ラノベ作家の竹宮ゆゆこ』でいてもいいと思う。おそらくラノベの方が売れるし、ここまで積み上げた実績を考えれば、どこも大切にしてくれるだろうし。
(他の作家とちがって『ラノベ作家が一般文芸に移った』という色眼鏡で見られるのは仕方ない)
ちなみに近年の警察官採用試験は個人のことは調べても、本人の気質を重視するために親の前科までは問われないケースが多いとのこと。この作品の場合は相当に大きな事件であるが、正当防衛になるだろうし情状酌量の余地もあるため、問題ないと推察される。
短編小説やってます