亀爺(以下亀)
「さて、今週最も注目を集める映画でもある、スコセッシ監督の『沈黙』のレビューを始めるとするかの」
ブログ主(以下主)
「まずさ、一言いい?
長い!!!」
亀「160分あるからの。150分越えの映画というのは、最近ではあまりないかもしれんな。それこそ、昨年公開の『PK』とかかの?」
主「個人的に、映画って90分くらいがベストだと思うんだよね。それぐらいだと飽きずに集中してみることができるけれど、100分を超えてくると大体の映画において、ダレ場が生じてくる。ダレることを計算に入れていたり、それを意識している映画ならいいけれど……
せいぜい130分以内にはできるだけまとめて欲しいっていうのが正直なところ。映画館も回数をこなしたいから、短い方がありがたがるだろうし」
亀「160分という時間だけで倦厭する人も多いじゃろうな」
主「どうしても見に行きづらいよね。自分としてもそれぐらいの大作になると、比較対象が『大脱走』とか『7人の侍』とかになるから、すごくハードルは高くなる。それだけの大作なんでしょ? って思いが必ず出てきちゃうし」
亀「さて、それではどうだったのか……
感想記事を始めるとするかの」
あらすじ
幕府によるキリシタン弾圧の波は九州を中心に日本全土に吹き荒れていた。
その中でも長崎はキリシタンが多く隠れて暮らしており、お上も取り締まりに一層の力を入れている地域であった。キリシタンの司祭ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は仲間のガルペ(アダム・ドライヴァー)とともに、棄教したとされる宣教師のフェレイラ(リーアム・ニーソン)に事の真相を聞くために、キチジロー(窪塚洋介)の案内もあり、長崎に上陸する。
そこで彼らを待っていたのは、幕府によるキリシタン弾圧の行いであった……
1 ネタバレなしの感想
亀「それではネタバレなしの感想と行くが……」
主「色々最初にいったけれど、お見事、というのが1番近い感想かな。
これだけの大作映画とあって、大きな破綻だったり疑問点はあまりないような作品に仕上がっている。多くの人が絶賛するだろうし、それに価する作品だろうね。
意外と静かな話で、大きな戦のシーンとかアクションシーンってほとんどないんだけど、160分間あまり飽きることなく、じっと見ていられたよ」
亀「終始ちょうどいい緊張感があるからの。それがあるからか、眠くなるようなこともなかった印象じゃな。
で、本音としてはどうなんじゃ?」
主「……まあ、良くも悪くも『予想通り』っていうのが答えかな?
うまい映画だし、いい映画だと思う。それは間違いない。この映画は2017年の洋画ランキングにも必ずランクインされるだろうし、多くの評論家が高得点を出すと思う。
うがった見方をすれば『賞レースに強そうだな』という印象でもある」
亀「否定のしようがない話じゃからの。
これだけのテーマと撮り方、作りと尺を考えれば、多くの批評家が否定できないポイントをキッチリとついてきておる」
主「映画の表現としてすごく目新しいとか、テーマが斬新とか、そういうことはあまりない。予想してような始まり方から、予想していたような結論までずっと続く。その意味では……少し評価に困るかも。
エンタメではないけれど、でもこの映画にエンタメを求めてくるお客さんもそんなにいないだろうし」
亀「興行面では少し苦しくなりそうじゃが、観客満足度は非常に高くなるじゃろうな」
『汚い』役者
亀「外国人が作った時代劇としても、良かったのではないかの?」
主「近年時代劇が少なくなって来たれけど、邦画の時代劇の多くが『綺麗すぎる』っていう欠点を抱えている。
例えば服がどう見ても新品でさ、染色もはっきりと明るくて、美しい。それが上級武士の役ならいいけれど、町人や農民に至るまで綺麗な顔をしている。それはどう考えてもおかしいでしょ?」
亀「農民なんて服が土にまみれていて当然じゃろうが、顔がほんの少し汚れているだけ、などというのが当たり前じゃからな。よくテレビなどで見る『汚い手で触るな!』というセリフなども、全く汚くない手でやると興ざめであるし……」
主「そういうところでリアリティをなくすんだよねぇ……まあさ、時代劇ってもうリアルじゃなくて、ファンタジーだからそれでいいと言えばいいんだけど……
でも、今作はきちんと汚いんだよね。窪塚洋介とか『ここまでやるか!』というほどのボロを着て、汚くなっている。
こちらに匂いまで伝わるようにできているんだよね」
亀「終始一貫して画面の構成がしっかりとしておった。外国人監督のとる江戸時代の日本というと、少しおかしな日本感が出ていたりもするじゃろうが、この作品はそういった描写があまりない。町人もそれ相応に汚かったしの」
主「あとは家だよね。近年の時代劇だと、家が結構密閉性がいいものも多いけれど、本来はこれくらい隙間があって、風が吹き抜けて正解なんだよ。特に貧しい村なんだし。
そういう部分がしっかりと描けていたから、時代劇としても満足だな」
役者の熱演
亀「ここは語らんといかんの。もちろん、外国人の俳優たちもしっかりと演技をしておったが……苦悩を多く抱える役、ということもあるが、それ以上に良かったのが日本の役者じゃった」
主「特にキチジロー役の窪塚洋介は、さっきも語ったとおり『ここまでやるか!』という姿を何度も晒している。あの役は本人の中でも多少の葛藤はあったと思うけれど、本作は見事に演じきった。素晴らしいよね。
あとは井上様と呼ばれる武士を演じるイッセー尾形が抜群によかった!」
亀「ねちっこい役じゃが、その中にも人間味もあるの。わしなどは『このおじいちゃんの語ることも正しいのではないか?』と思いながら鑑賞しておったわい」
主「これはスコセッシの描き方が見事な部分でもあるけれど、この手の映画って棄教を迫る敵サイドが一方的な悪役に描かれることも多い。もちろん、統治する側として色々と現代の価値観で語るとひどいこともしているけれど、当時のことを考えると仕方ない面もたくさんある。
それを一方的な悪役にしないで『憎むべき敵』にしなかったのは素晴らしいと思う。そこに一役買っていたのは、間違いなくこの役者の熱演だよね」
亀「他の役者も見事じゃったしの。役者に関してはケチのつけようがない作品に仕上がっておるのではないか?」
2 作品解説
亀「では、珍しく作品解説などをしていきたいと思うが……」
主「まずは時代背景から。
この時代、日本は鎖国していて、徳川幕府によってキリスト教は厳しい弾圧をされていたのは、教科書などでも習う常識だと思うけれど……まず、このことについてどう考えるか、ということでこの映画の評価も変わるかもね。
ちなみに、自分は当時のことを考えれば当然の規制だと思う」
亀「歴史において現代の価値観で語るということは、最もやってはいけないことじゃからな。この当時のことを考えれば、という注釈は当然あるがの」
主「まずさ、信長は新しい情報、新しい知識を積極的に取り入れることによって、旧体制を否定して新体制を作り出そうと苦慮していたわけだよね。これは時代の破壊者としては当然の反応なわけだ。だからキリスト教なども率先して受け入れた。
一方、今度は日本を統治する側となった秀吉、家康などにしてみたら、新しい情報などはこれから作り出すシステムを脅かす脅威になりうる。それを誰よりも知っているのが、間近で信長が破壊者として様々なものを壊していった過程を見ている家康などだよね」
亀「鉄砲などの新技術を持ってそれまでの時代を破壊していたこともあるからの」
当時のキリスト教
亀「さらにいうと、当時のキリスト教は特別な意味を持っておったの」
主「そうね。まず、キリスト教の宣教師として新しい土地に入る。そこで様々な……その国の文化だとか、知識だとか、軍事力だとかを調査する。また、当時は侵略や防衛に死活問題である地図を勝手に作ったりもしていたわけだ。
その宣教師たちは善良であったとしても、その情報を知った商人や為政者が善良であるとは限らない。だからそのあとは情報を基に様々な手を使って侵略し、植民地にしてしまう、という手が横行していた。
ある種の思想統制でもあるしね」
亀「日本の為政者たちはそのキリシタンを使った西洋のやり方を熟知していた、という話もあるの」
主「秀吉もさ、最初はそこまで過激には禁止令を出していなかったけれど、キリシタンが商人と結託して50万人とも言われる日本人を、奴隷として海外に売り飛ばしていたことを知って激怒した。
元々農民出身の秀吉の怒りは相当なものだったのは、語るまでもない。
だからこの映画のように『善良なキリシタン』かというと、そういうわけでもない。実際には奴隷は売るし、ロクデモナイ奴はいくらでもいる。その意味でも追放令は当然といえば当然のことなんだよ」
亀「それで日本特有の文化も花開いたしの」
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島原の乱以降
亀「しかし、意外と為政者側も冷静な対応をしておったの。やはり島原の乱以降というのが大きいか」
主「島原の乱は徳川幕府にとって数少ない大規模農民反乱事件だけど、その動機はキリシタンだから、というのが教科書に載っている大きな理由とされている。けれど、当然それだけじゃないんだよね……」
亀「島原の城主、松倉勝家の失政じゃの」
主「九公一民とも言われる重税……つまり、農作物の九割は国が持っていってしまうという、現代でいえば月収30万円ならば27万円を税金として収めなければいけない。こんなの、やっていけないから税の徴収は遅れる、すると娘などを人質にとられる。
そして藁で巻かれた上に、火につけて処刑……こういうことが日常茶飯事だった」
亀「キリシタンは弾圧しても良い、というお触れがより暴挙に拍車をかけたのじゃろうな」
主「身重な女性を6日間水牢に閉じ込めて処刑した行為に怒ったキリシタンが立ち上がり、戦ったのが島原の乱である。そして松倉勝家はその責と暴挙を問われて、改易のみならず、切腹ですらない、斬首にあった。
これだけ高い地位にいた人が斬首されるというのは異例で、どれだけ大きな罪であったか、ということもわかるよ」
亀「だから下手に刺激をすると、再び立ち上がられても面倒だ、ということで手をゆるめるわけじゃの。そして、そのやり方を変えてきた、と」
主「一つの失政で自分の身も危ういからね」
遠藤周作とカトリック
亀「あとはここも語らないといけないの」
主「遠藤周作って、確かにカトリックではあるんだよ。あるんだけど、その本質的にカトリックの教義と馴染めなかった人なんだよね。
どうにもカトリックとして生きていけそうもないけれど、でも洗礼を受けたし家族もカトリックだし……という悩みを生涯抱えていた。なぜ自分だけがこうも馴染めないのだろうか? というね」
亀「この作品でいうと、キチジローにそれはよく出ているかもしれんの。だからああいう描き方になったと」
主「それはあると思う。
この作品のラストがああいう形になったりとか、キチジローの描き方などは、そのまま遠藤周作の人生と重なる部分も多いんだよね。その……『守らなければいけない戒律』と『自身の本質』というものの差に、大きな悩みを感じていた。それを小説という形で吐き出すことによって、バランスを取っていた部分も多々あるでしょう。
だから、沈黙という作品は歴史的なできごととしてみても面白いけれど、自分なんかは『遠藤周作の心理状態を追う』という見方で見ても面白いと思う」
以下ネタバレあり
3 キリスト教の描きかた
亀「ではいよいよここからネタバレありの記事になるが……」
主「ここからはさ、結構本音で話していきます。いや、ここまでも本音なんだけどね」
亀「……本音? というと?」
主「まずさ、個人的な思いから言わせてもらうと、この主人公たちやキリシタンに一切の感情移入ができないわけよ。踏み絵も踏めばいいじゃん、キリストに唾吐けよって思っちゃうんだよね」
亀「……いや、それはあまりにも当時のキリシタンの思いを考慮しなすぎではないかの?」
主「この映画って結構中立的に描かれているなぁって思いが強い。弾圧する側の江戸幕府も結構冷静でさ『その絵を踏めばそれで良い、形式的なものだ』と言っているんだよね。
みんなわかっているんだよ、キリシタンだって。だけど、それを弾圧しすぎるとまた面倒なことになるから、とりあえず形だけでも、ってことをやっているわけ」
亀「それでいうと特徴的なのは過去にいた神父の話で『教えるばかりで学ぼうとしなかった、我々を軽蔑していた』というセリフもあったの」
主「それは最初のキチジローを見たときもそうでさ。『こんな奴がキリシタンであるはずがない』って見た目とかで決めつけている。これは、彼らが優れたキリスト教徒の司祭ではない……とでも言おうかな?
そういう偏見のある人だという描写でもある」
亀「キリストならば率先して救ったであろう人たちじゃからの。そういう人を偏見の目で見ている行為に、どんな意味があるのかの?」
現代日本に例えると
主「このお話を現代日本に例えたら、隣の地域で怪しい集会が行われていますよ、っていうのと同じなわけだ。今でこそキリスト教は一般的だから受け入れられるだろうけれど、それこそ、イスラム教徒みたいなあまり日本人の馴染みのない宗教や、全く聞いたこのない宗教を信じる人たちの集まりみたいなもので」
亀「夜な夜な集会をして、変な祈祷をしておったら差別的な行為をしてしまうのも、なんとなくうなづけるかの」
主「じゃあ、あなたの隣の家で夜に変なお祈りが聞こえてきたらどうですか? っていうことでもあると思う。結構怖いと思うんだよね、それ。しかも、現代と違って宗教的な知識なんてない時代だし。
それでいて大規模な反乱を始めたりするわけだからさ……当時の人の気持ちを考えると、カルト教団に対する我々一般人の意識と同じなんじゃないの? って思いがある」
亀「……大規模な反乱を行った宗教団体というと、思い浮かぶ団体もあるしの」
主「そういう視点で見ると、この映画って別にお上がやっていることはそんなにおかしなことではないんだよね。そりゃ、やり過ぎって意見もあるだろうけれど、当時の価値観と今の価値観は違うからねぇ」
4 キリストの十字架
主「さらに言えばさ、宗教の意味ってなんだ? ってことだと思う」
亀「宗教の意味?」
主「そう。宗教ってさ『人間が生きる上での規範や、希望をもたらすもの』なんじゃないの? 特にキリスト教などはさ。
だけど、その宗教を頑なに守ることによって死を選ぶということは、本末転倒な訳。人間が生きることを最大限肯定したものを守って死ぬんだよ? 目的と手段が入れ替わっているとすら思う」
亀「棄教すれば生き残れるにもかかわらず、そうしなかったわけじゃからな」
主「それっておかしくない? ただの絵であり、ただの像であるキリストの絵を守って命を落とすこと、それがキリストの望んだことなのか? っていうこと。
『みんなの罪を引き受けて十字架に磔にされたキリスト』なんだよね? そういった多くの罪を肩代わりするように、処刑されたのがキリストなんだよね?
そのキリストを信奉するのであれば、何が何でも生き延びるということをが本当のキリシタンなんじゃないのかな? って思いがある」
キリスト教の与えたもの
亀「これは仏教や神道を中心に考える日本人と、キリシタンの違いかもしれんな。
わしに言わせてもらえば、キリスト教などの1神教は『人生に意味を与える宗教』じゃ。例えば罪を犯せば地獄に落ちる、正しい行いで天国に行ける、などという考えじゃ。
一方の仏教などは『無』を基調としておる。生きる意味など無い、という考え方じゃの。これは『人生に意味なんか無い』と聞くと、なかなか厳しいことを言っておるようじゃが、そうではなくて
『生きる意味は生きてみなければわからない』
『とりあえず目の前にある草や木や空などを見つめてみなさい』という、現在を生きるということの教えでもある」
主「その意味では相性が悪いよねぇ。意味を与える宗教と、無意味を説く宗教なんだから、一致するはずが無い。
作中でも語られているけれど、日本人は草花などの自然に美と神を見出した民族だからさ……そりゃ弾圧も始まるよねぇ」
5 キチジローについて
亀「この映画の中で最も語らなければいけないのが、このキチジローの存在なんじゃろうな」
主「キチジローってすごく特長的な描かれ方をしていて、彼はある種のユダでもある。作中でも言及されていたけれど、ユダは銀貨30枚でキリストを売った。だけどキチジローは300枚で売ったわけだ。
これはその10倍以上の罪を背負った存在、という意味がある」
亀「そうじゃろうな。じゃがの、それだけとは思えん。
沈黙というタイトルが示すもの、それは『神は我々の苦闘に沈黙している』ということじゃろうが、それだけではないの」
主「そうね。つまり『沈黙の中に信仰を宿す』ということだ。
先ほども言った通り、キリストがすべての罪を代わりに持って処刑されたわけだ。だから、ユダのような存在であるキチジローの罪も抱いていたはずだと思う。どれほどの罪を重ねようとも、キチジローの選択が間違っていたとは、思えないんだよね」
亀「キチジローほどの罪深い存在であろうとも、救われるという話でもあるからの」
キリストとユダを描いた映画といえば、やはりこの作品でしょう
キチジローが手にしたもの
亀「それはあのキチジローのラストが印象的だったの」
主「『この国の人は信仰よりも物に頼る傾向がある。それはあまりよろしくない』というようなことを語っているけれど、キチジローは最初、物を与えられることを拒否するわけだ。これはやはり、キリスト教に対する罪の意識や、辛い思いをしていたということがある。
だけど、そのラストにおいて十字架を手にすることができる。それは、すごく弱い行為かもしれないし、最初のキリスト教の高みにいたロドリゴからすると、非難すべき行為かもしれないけれど、その成長はすごく大きい」
亀「しっかりと成長しておるからの」
主「そう。キリスト教徒としては『堕ちた』キチジローを救ったのは、同じく背教者として墜ちたロドリゴしかいなかった。
だからロドリゴの行為っていうのは、すごく尊いものでもあると思う。ある意味では究極の信仰でもあってさ『信仰を捨てながらも、信仰を持ち続ける』というのはすごく強い思想なわけ。
そして、ロドリゴが何十年にもわたって背教者という汚名を浴びながらも生きてこれたのは、その隣に同じく背教者であり、ある意味ではユダのような存在のキチジローがいたことも大きいと思う。
背教者ですらも、魂が汚れていなければ救われる……そんなキリスト教の1面を描いた傑作だと思うよ」
6 遠藤周作と沈黙
亀「では、最後にこの映画の原作者である遠藤周作の思いを紐解いていくとするかの」
主「やっぱり、最初に述べたように『キリスト教徒になりきれない自分』という葛藤はあったと思う。それはキチジローが間違いなくそうで、自分はキチジローみたいな存在なんだ、という思いは抱えていて生きていたんじゃないかな?
だからこのような小説を書いていた。
そんな彼にとっては、同じような背教者である存在が、道標となる存在がいてくれたら、という思いがあった。そして、例え背教者であろうとも、キリスト教徒である限りは救われるに違いない、というある意味では身勝手な思いを抱いていたんだと思う」
亀「じゃが、それが身勝手だと断罪すること人間が、果たして人間の弱さを指摘しているキリストの信者と言っていいのかはわからんの」
主「形の上では何度も裏切ってしまったし、苦しい思いも抱えてきた。そういう自分でも、死に行く時に本当の自分の信仰の形を示せれば楽になれるはずだ、ということを描いた作品だよね。
それはやっぱり、ユダの救済のような偉大な試みだと思う。どうしても非難されるような存在であるユダだけど、キリストは本当にユダを憎んでいるのだろうか? ユダをも許すのではないだろうか?
その思いが『為すべきことを為せ』という一言に現れているような気がしてくるよ」
亀「ユダがおらんとキリスト教もここまで大きくならんからの」
個人の問題に置き換えて
亀「確かに宗教論とすると、わかりづらいかもしれんが……では主に効果的な質問をするがの、仮に第二次大戦中のような状況になって、主が最も嫌いなプロパガンダの記事や小説を書け、と言われたどうするのじゃ?」
主「……う! 確かに……」
亀「もしくは、もっと一般的な話にすると、会社から経費削減のためにいい加減な仕事をしろと言われたり、途中でも終わりにして次の仕事に取りかかれと言われたらどうする?
絶対に批判はないとわかっておるが、それでもその仕事を放り出すことができるのか?」
主「あるいは原発批判をしている人が、家族やお金を理由に原発建設に力を貸す、とかか」
亀「神や宗教の問題と考えるとこの問題は見えづらくなってしまうような気がするが、このように矮小化されるとより見えやすくなるのではないかの?
わしなども、このように言われたら……個人の信条や、裏切り者と呼ばれるのが怖いから上のいうことを無視するかもしれん」
主「……そう考えるとこの司祭たちのような考え方の方が王道の物語なんだよなぁ。
そこから外れたことに、大きな意味があるとも言えるな。
……自分なら、多分屈すると思う。それで家族や自分が助かるならばって思いもある。だけど、確かにそこで抗う方がカッコイイとか、潔いという思いもあるんだよね」
亀「難しい話じゃの。遠藤周作の悩みがわかる気がしてくるわい」
最後に
主「その意味では坂口安吾の力強さも感じるんだよね。堕落論で『生きよ堕ちよ』と説いた安吾だけど、堕ちた先にしかない救いってやっぱりあると思うし。堕ちたからこそ救えた存在っているような気がする」
亀「そういえば、まだ長崎には隠れキリシタンがおるようじゃな」
主「文化としての隠れキリシタンというのはいるみたいだね。隠れて信仰することに意味を見出た人たちの末裔がいるっていう。
それもそれで1つの宗教のあるべき形だと思うよ」
亀「何はともあれ、いい映画じゃったの」
主「長い!! 以外には特に文句もないしね。
だけど、個人的には150分超えるとやっぱり辛いなぁ……。宇多丸とか来週扱うらしいけれど、何回もこの映画を見るのかね? 大変だよねぇ。
自分はもう1度みよう! って言われても拒否する」
亀「……キチジロー並みの不届き者じゃな」
主「そんな人間でも救われるはずだよ、きっと」
日本と海外の合作時代劇やスコセッシ監督の過去作を紹介。
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