孤独のススメを見てきたのでその感想などを。
ちなみに本作を某漫画原作ドラマと同じような作品だと思い、おじさんが一人旅をしながら様々な人との交流を独り言交じりに描く映画だと思ったら大間違いなのでお気をつけて。(そんな人間は私だけ?)
だって、あのポスターを見たらそう勘違いするでしょ!?
題名だって明らかにパロディにしてるし……以下略
一言感想
神はどこにいるかわからない
1 先が読めない展開
この作品を私はポスターとタイトルだけで観に行こうと思っていたので、事前情報は一切なかった。むしろ、先ほどにあげた通り、おじさんが孤独に一人で各地をバス旅行していて、現地で魅力的な女性が現れるが最後はフラれるという、まるで国民的映画シリーズのようなハートフルな作品だろうという、わけのわからない予想を胸にしながら鑑賞したわけだ。
するとどうだ
まったく違うではないか!!(当たり前だ)
まず孤独な老人が出てくるが、どうにも彼は時間きっちりの生活を送り、毎週日曜日には教会にも通う、典型的な敬虔なクリスチャンのようだ。
そんなある日、隣の家でガソリンタンクを持つ男と出会う。老人はその男に昨日全く同じことを言われて金を貸したが、2日続けて金を借りに来るのはおかしいと、車を確認しに行く。
すると、車はなく、その男は(頭に障害を抱える)ペテン師だったことがわかり、罰として庭掃除をさせる。
そこまではいいのだが、この後で老人は男に食事をごちそうし、住む部屋まで与えてしまうのだ。
展開強引じゃない?
という感じでこの話は強引に話が展開していく。もちろん一部に関してはきちんと伏線の回収がなされるのだが、そのまま放置されてしまうところもあった。
例えばそのペテン師(乞食)と生活するようになり、ショッピングモールに行くのだが乞食がヤギの鳴き声を始める。ショッピングモールでもヤギの鳴き声を真似るのだが、明らかに異常者であり、お近づきになりたくない人になっている。
スーパーに四つん這いになりながらヤギの鳴き真似をしていると子供が近づいてきて非常に喜んでおり、それを優しく見守る両親。その光景は単なる不審者にしか見えないのだが、あろうことかその両親は娘の誕生日パーティの余興に彼らを招待したいと言い出した!
いや、その展開無理あるよ!?
もしかしたらオランダでは日常茶飯事なのかもしれないが、少なくとも日本人が見たらみんないい人すぎてびっくりするほどだった。
どうやら調べてみると今作の監督、脚本はオランダの俳優であるディーデリク・エビンゲなのだが、本作が初長編監督、脚本作品であるようだ。なるほど、この少々強引な展開というのはそのせいかもしれない。
この強引さによってかなりの急展開があるのだが、では本作がひどい映画かというとそんなことはない。
むしろ逆である。
2 見せ方のうまさ
脚本の展開のさせ方は多少の無理があるのだが、では映画としてダメなのかというとそんなことはない。
むしろ、この作品は非常にいい作品である。
この作品で音楽はあまりかからない印象があった。私はクラシック音楽にそこまで詳しくないが、おそらく本作で流れる音楽の多くがバッハ作曲のものだろう。(確認したら監督のインタビューでもそのようなことが書かれていた)
クラシック調の落ち着いた音楽が少しずつ流れていく。
本来ならば場面の激しさを演出したいのであれば、オドロオドロしい音楽であったり、激しい音楽を流す方がいい場面もあるにもかかわらず、本作ではそのような音楽が流れていない。これは主人公、フレッドの住む地域が宗教性の高いコミュニティのため現代音楽が禁止されているため、と監督は語っているが、それだけだと思えない。
ここで音楽を落ち着いたものにするからこそ、ラストが生きるわけである。
本作のラストではこの作品のスタートからは想像できない場所へとフレッドは向かう。そこで流れる音楽が非常に特徴的で、声も甘く、こちらを魅了してくる。
このラストを最大限に生かすために監督は音楽をバッハに絞り、しかもそれがあまり目立たない形にしたのではないだろうか?
テオの映し方
それから見せ方の巧さというとこの作品の相方である乞食のテオの映し方があげられる。
作品のスタート時は本当に胡散臭いホームレスで、こんな男に関わっていたら家の中のものを盗まれるのではないかと思うほどで、画面から獣くさい臭いが漂ってきそうなほど嫌悪感を催す存在だった。所作も子供や獣と同じであり、次の瞬間には暴力的なことを仕出かしても不思議ではないほど不穏な存在であり、だからこそ余計にフレッドが彼を家の中に入れることが理解できないのだ。
だが話が進んでくるにつれてその嫌悪感も不思議と無くなっていく。別にテオが何か変わったわけではないのだ。見た目は相変わらず汚らしいし、所作は少し覚えたものの、何をしでかすかわからないような存在であるのは変わらない。
そんなテオがラストではとても愛らしく見えてくるのである。それは彼のバックボーンを知ってその同情をしている、という理由だけではなく、テオという存在が実はこのコミュニティの中では非常に特殊であるが故に、特別なものに見えてくるからということではないだろうか。
3 この作品の主題とは?
キリストは奇跡を起こしていないという説がある。
キリストは奇跡を次々と起こしたから人々に信奉されたのではなく病気の人、障害を抱える人、被差別の人に近づいて、その話をじっくりと聞き手を重ね、人々はその姿に涙を流し、信奉したという説だ。
たったそれだけのことのように思えるが、今と比べものにならない閉鎖的な時代に自分の話を聞いてもらえて、しかも時には触れ合ってくれる人物というのはきっと神が遣わした子のように思えただろう。
私はこの説が非常に気に入っているのだが、この作品を見ているとその意味がわかるのだ。
先ほどテオという存在が特別なものと書いたが、それは一体何か?
それは安直だが『宗教という囲いに囚われたコミュニティに舞い降りた天使』なのではないだろうか?
テオと出会うことでフレッドは習慣であった教会へ祈りに行くことをやめて、子供達を楽しませるための芸人(作中ではアーティスト)となる。教会に祈りに行くことよりも、子供達を楽しませることだって変わらず大切なことではないだろうか?
もちろんその行為には金銭が発生し、ボランティアというわけではないが、その行いの最終目標はマッターホルンに行くためという明確な理由がある。
そういったコミュニティの常識から抜け出したからこそ、フレッドは人々の偏見に満ちた世界と違う世界を見つけ出したのではないだろうか?
私はフレッドが禁忌を犯し、信仰を馬鹿にしたとは思わない。むしろ全く新しい形で新たな信仰を生み出した偉大な人物だとすら思うのだ。それらの常識に縛られて生きるのは簡単だが、その世界にいたからこそフレッドは孤独な生活をモヤモヤした気持ちを抱えながら送ることになってしまったのではないか?
テオはそんな彼を救い出した神の使徒なのだ。
最後に
最後に、なぜ『Matterhorn』という題名が『孤独のススメ』になったのか考えてみた。
もちろん集客的に『孤独のグルメ』に近いものの方が注目を集めるというのも少しはありそうだが、この作品の『孤独』とは決して一人になることを指しているわけではないと思うのだ。
信仰に縛られた人たちとそのコミュニティに暮らすことよりも、そこから飛び出して孤独に暮らした方が新しい世界が広がっている。だからこそ、この『孤独のススメ』というタイトルになったのだろう。
先の監督インタビューで面白かったのがこの作品をLGBT作品として撮った覚えはなかったということだ。オランダではLGBTについて非常に進んでいるため、その意識が全くなかった、むしろ海外でそう言われることに驚いているという内容だった。
これこそ以下に我々の、世界規模の考え方が縛られているかわかるだろう。本当に自由な場所ではLGBT問題なんて考えもしないのだ。
というわけで孤独のススメの感想を書いてきた。
ここ最近キャロルだったり、志村貴子作品であったり、こういった LGBT問題の作品が多いのは単なる偶然だ。でも世界的に文学的、映画的に面白い題材だから、これからもこの題材で名作が生まれていくだろう。