今回の記事は前回書いた記事の続編になるが、この記事だけ読んでも理解できるように書いていく。
前回の記事はこちら
一般的に本を読む理由
まずは文科省が調査した『平成 25 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』の中から一部を抜粋し、考察したい。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/h25_chosa_kekka.pdf
11p、問13の『読書をすることの良いところは何だと思うか』の調査結果を見ると、以下のようになっていた。
感性が豊かになる 40,0%
豊かな言葉や表現を学べること 38,6%
想像力や空想力を養うこと 31,3%
感動を味わえること 26,4%
楽しく時間が過ごせること 25,5%
以下略
この結果を見る限りにおいては、多くの人が本を読む長所として『知識や情報を得られること』などの勉強、学びを上げているということがわかる。楽しいから、感動するからといった、娯楽として本を読んでいるというのは約4人に1人という回答結果になった。
これは前回の記事でも書いたように、自己啓発やビジネス書の読者の分母は小説よりも多いという指摘が正しいということを裏付ける結果に繋がるのではないだろうか。
本は勉強の役にたつ?
では本は勉強するためのツールとして向いているのだろうか?
その答えは当然ながら『イエス』となるのだが、理由を以下に書いていく。
値段の安さ
本1冊の値段であればハードカバーの新刊でも多くが2000円以下、高くともせいぜい4000円以下で買えるし、1度購入すればシリーズものでもない限りその1冊だけの支払いでOK。
さらによほど専門性の高い本でない限り入手するのは比較的容易である。現代ではAmazonもあるため、興味があればパパッとクリックしてしまえば、あとは届くのを待つだけというお手軽さがある。
これがセミナーや塾などの場合、会場まで行く交通費や時間もあれば、一回あたりの講習料、さらに毎月通うとなる比べものにならない額を支払うことになる。
手軽に読める
セミナーや塾の場合は『少し空いた時間に』などということはできない。行くための時間を作り、予習復習をする時間を捻出しなければいけない。パソコンで通信教育にしても、パソコンを広げられるスペース等が必要である。
だが、本の場合は通勤途中や昼休みでも読めるし、場所もどこでもいい。散らかったデスクの上であっても、鞄から本を取り出すだけでどこでも勉強スペースになる。
読み返せる
本は数年経っても読み返すことができ、当時は理解できなくても、その後勉強を重ねれば読み返した時に、理解できるということもある。
講習であれば録音などをしない限り聞き返すことはできない。
高名な先生の理論を聴ける
誰もが知る高名な先生の授業となると中々聞けるものではないし、大学生ならばともかく社会人には経済的、時間的ハードルが高い。
本であれば高名な先生の書いた本を読めば、その内容に触れることができる。
これは既に亡くなった偉人の思想にも触れられるので、なぜそのような考えが生まれたのか、順を追って理解することができるだろう。
前回の記事で書いたのだが、昔の日本の教養とされる四書、五経などの『大説』は本を読む(音読)ことにより学ぶというスタイルが一般的だった。その当時に比べて今はネットによる動画配信などもあるが、伝統ということもあるのか、本を読んで勉強という意識は根強く残っている。
ここまで書いた流れであれば、やはりビジネス本やライフハックなどの実用書を紹介するのが正しい流れであるし、Amazonへのリンクでも貼ればお金もある程度は入るだろう。
だが、私がこの記事で伝えたいのは本を読む素晴らしさでも、オススメの実用書でもない。
当ブログではビジネス本、自己啓発本等を紹介する気が一切ないということである!
勉強と学問
私は昔から『勉強』が嫌いだった。
面白くもない授業なんて聞きたくないし、人間的魅力のない教師のいうことをなぜ聞かなければいけないのか疑問だった。夏休みの宿題は最終日を過ぎても始めないし、夏休みが明けても提出なんてしなかった。
苦言を呈されても適当に笑って誤魔化していた。
では学ぶのが嫌いかというと、そんなことはない。知識を頭に入れるのは好きなのであるが、興味がないことはトコトンやらない人間だったというだけだ。
それは現在もそこまで変わらない。
勉強とは『強いて勉める』ものである。
強制されなければやらないことである。語源を調べても、本来はやりたくないことを仕方なくやること、とある。
学問とは『問い、学ぶ』ものである。
自ら興味を持ち、問いかけ、学ぶものである。
似ているようであるが、この差は非常に大きい。
本当に興味があるならば、本を読まなくてもその物事について考えているはずである。だから日常生活のちょっとしたことで、様々なことに気がつく。
ニュートンのリンゴ
ニュートンがリンゴが落ちる様を見て万有引力を発見したのは、普段の生活からそういったことをずっと考えていたからである。真偽が疑われているある逸話ではあるが、この逸話が教えてくれるのは、ずっと一つの物事について考えていればいつか歴史に残る大発見をするかもしれない、ということだ。
例えばビジネスについて考えていたとしたら、街を歩くだけで様々なことに気がつくはずである。
なぜ美味しくない店が繁盛しているのか、このコンビニの商品ラインナップはどの層をターゲットにしているのか、なぜこの店は潰れないのか……
本気で一つのことについて考えていれば、本を読んだり勉強しなくても色々と気がつくものだろう。
好きだから読む、好きだから書く
表現者には2種類の人間がいる。
自分のために表現する者
相手(観客、読者等)のために表現する者
私もブログを書き始めてからいろいろなブログを読むようになったのだが、その中でもよく目についたのは「読者のために」「読者のことを考えて」という言葉だった。もちろん、その言葉を否定するつもりはない。それは立派な心持ちだし、本気でそう思って書いている人もプロアマ含めて沢山いるはずだ。
だが、私は実はそうではない。
私がブログを書く理由は「私自身が楽しいから」である。
好きでなければ誰も読みもしないような小説を書いてアップをしないし、この記事だっておそらく読まれるのはせいぜい5日間ぐらいで、あとは肥やしとなるだろう。
もちろん、自分の意見を発信し、それでお金を儲けたいというのもある。だが自分の意見が注目されたければ、より世間の注目度が高いお笑い芸人などを目指した方がいいし、お金を稼ぐならばブログよりも優れた手段はいくらでもある。
それでもブログを選択して、毎日書いているのは、それが好きだからというだけである。
このブログは物語評論などと謳っているが、私など何者でもない一介のアマチュア小説家志望者でしかない。私が書いた内容が絶対的に正しいと主張する気もないし、他の誰かのためになるかと言われるとそれはわからない。
(『絶対に誰かのためになる情報』なんてものが無料で読めるブログで見つかるわけがないとすら思っている)
炎上の危険性もあるけれど、こういったものを書くのが好きだから続けているのである。
本を読む理由
本を読む理由も同じである。
好きだから本を読むだけだ。
私は食に対して興味があるので、小泉武夫の料理に関する研究の本や、池波正太郎、谷崎潤一郎の食エッセイ、すきやばし次郎店主の小野二郎が教える寿司の極意、科学的な味の研究、バーテンダーズマニュアルなども読む。
発酵について興味を持った時は論文を検索して頭がこんがらがったし、図書館に行って専門書をひたすら読んでいた時もある。
それは小説などの物語、宇宙に関すること、地球に関することなど、興味があるときに興味がある本を読んでいただけである。
ではそれが人生の役に立ったかというと、あまり役には立っていないのが実情である。小説や役に立たない学術書を1000冊読むよりも、ビジネス書などを100冊読んだ方がよっぽど直接的に為になると思われるかもしれない。
しかし小説のことで考えていた時に、ある時不意に過去に学んだ知識がアイディアとして生きる瞬間がある。
それは目的を持って本を読んだからではなく、小説についてずっと考えてきたからだ。
ビジネスで成功したいのであれば、本を読む暇があったら一心不乱に考えて行動することが一番の近道である。どうしてもわからなかったら、本を開くなり、人に聞くほうがいい。
もちろん、読者のことを考えるのは大事である。
だが、読者が楽しんでくれればその作者は当然楽しいわけで、そうなると作者はより読者を楽しませるために試行錯誤を繰り返す。すると、自分のための試行錯誤が、読者のための試行錯誤になっていくのである。
決して、自分が楽しむことと他人を楽しませることは相反するとは限らないのだ。
こういった人間が書くブログだから、その感想や感心したポイント、展開のうまさは語ることができるが、人にお勧めできるビジネス本などは紹介できない。
紹介するとしても「役に立つよ」ではなく「面白いよ」「こんな感想を持ったよ」「こんなことを考えたよ」という私の主観でしかなく、答えを知りたい人には何の役にも立たない文章になる。
そして何よりも、勉強するために本を読むということがないために、その手の本を読む機会があまりないし、好きなジャンルでもない。
そもそも成功したいならば本を読んでいる場合ではないとすら考える。
だから紹介することができない。
本はあくまでも娯楽でしかない、というのが私の持論である。
(まあ、朝令暮改な人間なので明日になったら180度違うことを言っているかもしれないけれど)