過去二回にわたりドラマがなぜ面白くないか、ということを列挙してきた。元々アニメが好きな人間はドラマを見ない、などと言われているが、それは決して二次元にしか興味がないからというわかりやすい話ではなく(それならば声優にも興味がないということになると思う)、実はドラマが抱える構造的問題も大いにあるということを伝えていきたい。
なお、今回も特定のドラマ、放送局を非難するものではないということは言っておく。すべての物語形式にはそれぞれ長所と短所があるが、ドラマが抱えるそれを語りたいだけだ。
ちなみに過去の記事がこちら。
1 テレビという媒体
ここ最近、お笑い芸人達がこぞって『テレビがつまらなくなった』という機会が増えているように思う。その原因に上がるのが『視聴者からのクレーム』だ。
これはまさしくその通りで、確かに最近はほんの些細なことにもクレームがつき、それに対処を迫られるケースが増えている。私などはやはり、物語の中でタバコを吸わせるな、という流れがさらに増大化している風潮が非常に気になっている。いずれはセックスを揶揄する描写や、病気、酒なども使えなくなるのではないかと危惧するくらいだ。
(現に1950年代のアメリカハリウッドでは赤狩りやヘイズコードと呼ばれる表現規制が横行し、思想統制やセックスシーンを描かないという暗黙の了解ができたことがある。チャップリンは赤狩りによってハリウッドを追放された代表的人物の1人)
漫画においても表現規制がなされようとしている中、テレビは確かに『自己規制』というのが非常に強い媒体である。例えば放送禁止用語というのがそうで、一部の差別的な言葉はともかくとして「床屋」や「町医者」という職業に対する言葉も、今となってはそこに差別的なニュアンスは少ないにも関わらず禁止されている。
この辺りの話は『爆笑問題カーボーイ』の2月2日回のOPが非常に参考になるのだが、これはテレビというメディアが「無料で」「いつでも」「誰でも」見れてしまうことから由来する。
例えば、映画であれば劇場へ行ってチケットを買うという行動が発生する。その際に場合によっては年齢認証を受けるし、その映画は興味がある人しか見ない。演劇、小説を始め、多くの物語作品は本来興味のある人しか対象としていない。
だがテレビに関しては別で、多くの視聴者には無料で見てもらい、その広告収入で成り立つという形であるから、視聴者をテレビの側で選り分けることができないのだ。だから誰が見ても問題のないように作らねばならず、作りたいように作れず、そこが大きな足枷となっている。
2 知識レベルの問題
ドラマ、テレビ番組にとってその番組の良し悪しを測る大きな指標が『視聴率』である。これは録画がいくらでも可能になり、ネットでテレビを(場合によっては違法であっても)視聴することができるようになった時代でも変わらない昔ながらの指標である。
そのような状況であるから、テレビというのは基本的に『誰が見ても』『分かりやすい』ということがより重要視されている。
ここの誰という部分には、もちろん高齢者もいるし、若者もいるし、子供もいる。どの層をターゲットにするかという問題はあるにしろ、あえて高齢者を切り捨てる番組編成をする、ということは基本的にない。
そうなると、そのドラマ作品はより強い『一般性』を獲得しなければならない。これはどういうことかというと、簡単に言えば『馬鹿でもわかる』『片手間に見てもわかりやすい』話ということだ。例えば以前にあげた『眺めのいい部屋売ります』という映画について書いた際に触れたが、非常に難しい問題を会話やセリフで説明することなく、演出だけで説明しようとした。だから少しわかりづらいようにはなってしまっているが、作品自体に奥深さなどが出ているし、面白いものになっている。
だが、このような演出はドラマではできないことが多い。なぜならば、極端に言えば『その作品が人生で初めてドラマを見る』という人を理解させることが可能なように造らねばならないからだ。
だが面白い作品というものがそのようなわかりやすい作品ばかりではないというのは誰にでもお分かり頂けると思う。小説で言えば純文学、映画で言えばゴダールだったりリンチというのは誰にでもわかるという作品ではないが、面白いし一流のものであることは疑いようがない。
そのようなわかりにくいけれども面白い作品という最先端の表現というのは、その表現の幅を大きく広げるものだ。だが、それはゴダールの作品が第1作を除き、ほぼ全てが赤字であるように、多くの人に受けいれられるものではない。
それはテレビ局のビジネスとして非常に困るものである。
さらに言えば、物語は時として事前知識を必要とするものがある。例えば『アラビアのロレンス』などは映画界の名作だが、あの作品を当時の世界情勢やロレンスが何者か何も知らずに観に行くと、何をしているのか、その思惑などがわかりづらく面白さは半減だろう。
だからテレビドラマは上記二つのような、最先端でわかりづらいもの、事前知識を必要とするものは敬遠され、どの作品も事前知識を必要としない似たような現代劇になってしまう。現代劇ならば今を生きる我々には大体の予備知識は必要なく、お話が何となくわかる。
3 倫理の壁
物語において倫理に問題のある行動をとる、というのは実は大切な要素だ。
例えば昼ドラなどというのは今や『ドロドロ不倫や恋愛劇の代名詞』となったし、ドラマ『高校教師』などは教師と生徒の恋愛という、問題のある行為が大ヒットの要因となった。また悪党を倒す(殺す)というのも暴力的表現ではあるものの、スカッとする爽快感を出すには重要なものである。
恋愛におけるタブーには比較的寛容であるのだが、一方ではスポンサーの事情で車の事故のシーンは出せない、などといった自己規制や、障害者や児童養護施設にいるような子供は極力出さない、もしくは十分配慮して出す、というものもある。もしも少しでもこれに抵触するような作品を作り、クレームでもきようものならどんなに良心的に作られた作品であっても、お咎めの対象となってしまう。そんな例は過去にいくらでもある。
例えば子供が生まれた直後に泣き崩れる理由が「この子は私の宝物よ」というプラスものもだったらいいが「子どもなんて、絶対いらなかった……」というようなものならそれはカットを要求されるだろう。
親の介護で「……早く死んでくれないかなぁ」なんて言った日にはクレーム殺到だろう。
しかし、その反応は人間の反応としてはある程度起こり得るものの筈である。それができないとなると、やはりドラマを作る上では相当なハンデとなってしまい、書くことがそんなに無くなってしまうし、どれもこれも似たような作品になってしまう。
4 ドラマの目的は『共感性』
物語の面白さというのは2通りある。
1つは人生の深淵や、真実を描いた奥深さ、真理を表現するもの。
もう1つは登場人物に思いをはせて、現実の視聴者と同一視する共感性。
ドラマの目的は、2つ目の面白さである共感することにある。だから「この主人公の気持ちわかる」とか「誰々くんかっこいい(可愛い)」がドラマの目的の9割を占めるように作られている。その共感性は別にドラマの登場人物だけでなく、翌日職場やクラスで「あの番組見た?」とか「かっこよかったよね」なんて話の話題としての共感性を重要視して作られている。
だからそもそも、人生の奥深さを描こうという気はあまりない。そんなものを描いたところで、次の日の職場で「昨日のドラマを見て人生というものを考えたんだが……」なんて会話はおきないし、おきても引かれるだけだ。
別に共感性が高い作品は物語の質が低いというわけではないが、あまりにもそれが重視されすぎると、私みたいな語りたい視聴者は語ることがなくなってしまう。しかも重厚な演出な上の共感性ならばいいのであるが、ただただキャッチーなだけの共感性では安っぽいものになってしまう。
その共感性と奥深さの両方を獲得した作品が名作になるのだが、ドラマは奥深い表現がやりづらい構造になってしまっているため、どうしても安っぽい共感性を重視しているように見える。
だからドラマというものは語ることが非常に難しい。あまり物語の構造論や、脚本論、人生の描き方という話にならないと私は考えている。
もちろんその両方を獲得した名作もあるのだろうが。
これがドラマが抱える構造的問題だ。
一番初めの『私がドラマを見ない3つの理由』などはその責任者がいないと書いた。
その人物が責任を取る、ということにならない限り、先駆的表現というのは成り立ちづらいのではないだろうか。
アメリカのドラマなどはその両方を獲得しているように思うけどなぁ……
なんで日本は無理なのだろうか。やはり予算?
短編小説やってます