物語る亀

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物語愛好者の雑文

火ノ丸相撲はなぜ面白いのか、ちはやふると対比して研究と考察した

 週刊少年ジャンプで連載中の火ノ丸相撲にあまりにもハマりすぎて、なぜこれほどもまでに面白いのかという考察をしているうちに、ちはやふるとの関連性に気がついた。

 今回はそのことについて書いていきながらも、少年漫画的な面白さとは何かということに注目していこうと思う。

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  まずこの記事を書くにあたって参考にして欲しいのが、以下の記事である。

 

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  この記事は上の火ノ丸相撲の9巻感想記事でもあげたのだが、実はちはやふるの面白さと火ノ丸相撲の面白さというものは被る部分が非常に多い。「いや、そんなわけないだろwww」なんて声も聞こえてきそうだが、とりあえず気にせずに書いていこうと思う。

 

1 少年漫画の条件

 これは前回の記事からの引用部分である。

 

  私が思うに、少年漫画とは『明確な勝利条件』があり、少女漫画は『曖昧な目標』があるということではないだろうか?

 

 まあ、これは『Dr.スランプ』や『ピューと吹くジャガー』の勝利条件とは何かという話にも発展しそうなので、これはバトル少年漫画ということにより限定的するが、この意味を詳しく説明しよう。

 

 火ノ丸相撲の場合は最終的な目標は『大相撲の横綱』になることであるが、まだプロにもなっていないので、まずはプロになるために少しずつステージを上がるしかない。その方法こそが『学生横綱になる』ことであり、そのために『目の前のライバル達を倒していく』ということである。

 

 当たり前のようであるが、実はそれができていない漫画もそこそこある。例えば倒すべき敵がいなかったり、その敵にたどり着くための方法がふわふわしている内に、迷走が始まってしまったりする。(後多いのが敵が強すぎるために倒し方が見つからないで迷走など)

 

 これは敵対勢力の数が多くなってしまい、各陣営の思惑が複雑に絡み合ったりするなどすると起こりやすいのだが、相撲という競技の場合、基本的に土俵の上では自分と敵の二人しかいない。妨害作戦もないし、構図はわかりやすい。トーナメントなどの組み合わせはあるにしろ、明確な勝利条件がぶれるということはないだろう。

 少年漫画として非常にわかりやすいものになっている。

 

 

2 漫画向きの題材

 ここもちはやふると同じように、相撲という題材は漫画に向いている。

 その理由は以下の通り

 

 まず第一にルールが簡単

 足の裏以外の部分を地につけるか、土俵の外に出ると負けというルールは非常にわかりやすい。技名や決まり手などがわからなくても、勝敗は素人目でも簡単にわかるものだ。

 だがそれで浅い競技かというと、そこに至るまでの努力や戦略も深く、読み応えもある。

 

 第二に誰でも知っている。

 相撲は伝統芸能としての面もあり、体育の授業や伝統文化を学ぶ授業で相撲を扱うこともあるし、場所は年6回もある上に一度始まるとニュースがこぞって報道する。若い人には熱狂的なファンが少ないかもしれないが、知名度は非常に高い。全く知らない競技であれば読むにもハードルが上がるが「相撲の漫画だよ」と言われれば、なんとなく想像できるし手に取る確率が多いだろう。

 

 あとは読者が詳しすぎないのもいいのかなぁということも最近考えていて、例えばこれが野球であれば「セイバーメトリクス的に」とか「ここでその考え方は常識から言っても……いや学生野球ならば……」などという専門的な意見も出てきてしまうので、素人寄りにするか、玄人寄りにするかというバランスをどう取るかという問題にもなる。

 そこがジャンプで野球やサッカーなどの漫画が長続きしない要因になっているのかもしれない。

  

 第三に目標が明確。

 火ノ丸相撲は横綱を目指しているのだが、このようなスポーツ漫画の場合なぜ王者を目指すことが目標になるのかという理由が特になくても誰にでも理解することができる。

 例えば究極の絵画を描く、至高の小説を書くなどという抽象的な最終目標では、読者は「一体それはなんだろう?」と疑問に思い、共感性は減ってしまう。

 

 

 第四に明確な実力がランク付けされる。

 これは鳥山明がドラゴンボールでやった手法であり、フリーザ編でいう「私の戦闘力は53万です」みたいなものである。その時点における主人公などの戦闘力を数字で表し、それを開示することによって相手との戦力差がどれほど絶望的なのか分からせる簡単でいい方法である。

 

 だが、これには問題があって例えば幽☆遊☆白書において戸愚呂弟がB級妖怪だとわかった時に、これから先の敵はあれ以上なのか! と期待するとともに、「過小評価だよな」という声が上がることもありうる。絵以外の部分で説明しているから、よほどレベルの違う戦いを演出しなければ読者も納得してくれない。

 さらに、敵を強くしすぎてどうしようもなくなってしまう。シャーマンキングのハオなどは、その典型だろう。

 

 だが相撲の場合は横綱、大関などのように明確なランクがあり、横綱と聞いただけでその強さが読者にもわかりやすい。しかし、同じ国宝同士であればそこまで大きな差がないので試合自体も盛り上がる。

 

 ここから先プロ編に行くのかはわからないが、学生横綱という称号があれば明確な強さの描写がなくても強いということがわかるので、その実力が高校編ではインフレすることなく話を進めることができる。既存のランキング制を流用することにより、数字で表すよりもインフレを防止しながら強さを読者にわかりやすくアピールすることができるのだ。

 

 上にあげた4つの要素はほとんどちはやふると同じである。相撲の部分をかるたに変えるだけでそのまま説明が流用できる。

 

 

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3 使い捨てにされない登場人物

 

 近年では魅力的なキャラクターを出すことが非常に重要とされているが、そのために大量のキャラクターを出しつつも、その多くが数話スポットライトを浴びただけで退場するケースも少なくない。

 

 1番顕著な例でいうとドラゴンボールがそうで、ヤムチャ、亀仙人、天津飯、ピッコロ、ベジータ、フリーザ、セル、ブウと闘う相手のランクが上がっていくにつれて前回の戦いで激闘を繰り広げた仲間が戦いについていけなくなり、見せ場もなく散っていく姿が多く見られた。最後まで食らいついたのはベジータくらいなものだ。

 

 鳥山明の場合は次々と魅力的なキャラクターを生み出し、キャラクターを使い捨てにしても物語として成立しているからいいものの、普通の漫画家や作家はそれだけの魅力的なキャラクターを量産することはできない。

 そのために、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるで大量にキャラクターを出してあたったキャラにスポットを当てて、他のキャラは捨てるということになりかねない。

 

 別にこの手法が悪いということはないのだが、そうなると読者としては「あれだけ激闘を繰り広げたあいつが実力不足で退場かぁ……」と寂しい気持ちになってしまうだろう。

 ちはやふると日ノ丸相撲に関してはここの部分が非常に秀逸で、たとえ脇役のキャラクターであってもバックボーンがあり、見せ場は用意されている。これは選手のみならず、それを支える大人や裏方と呼ばれる人たちも同様である。

 

 どうしても少年漫画というのは少年を対象にしているため、主人公を想定する読者と歳の近い少年にすることが多いものであるが、その場合世界の危機や子供達が苦しんでいる時に大人は何をしているのか? という疑問が出てきてしまう作品もある。

 だがちはやふると日ノ丸相撲の場合は、競技を行うのは少年少女たちであり、大人はそれを応援し支えることしかできない。応援し、支える姿を描くことで、他の少年向け作品では大人はおざなりにされがちな存在である大人達も交じり合い、物語に一体感を生んでいる。

 

 

4 敗北の描き方

 私がバトル作品において最も重要視しているのはこの敗北という部分である。

 これはちはやふるの時も書いたのだが、敗北というものは絶望感とそこから立ち上がる努力を描くことにより、物語により大きな深みを与えてくれる。

 

 この2作品は非常に重い敗北を重ねることもある。勝負事というのはいつだって必ず勝てるものではないし、むしろ負けることの方が多いのが現実ではないだろうか。そこから目を背けることなく、しっかりと敗北と絶望、自分と他の才能との壁を描き、乗り越えていく様を描くから我々読者は「頑張れ!」と応援したくなるものだろう。

 

 ここまで書いてきて、私がちはやふると火ノ丸相撲が似ているといったことがわかっていただけただろうか? 

 その悩みや戦略、そして何よりも『友情、努力、勝利』を描くことにより話を面白くしているし、構造が似ていると指摘する理由がわかっただろう。

 ではここからは、この両者の最大の違いについて書いていく。

 

 

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5 少年漫画に恋愛描写は必要か?

 ちはやふるの1つの要素として千早、太一、新の3人を巻き込んだ恋愛描写がある。一方、火ノ丸相撲には恋愛描写どころが誰もが認める明確なヒロインも不在のような状況である(レイナは……1番ヒロインに近いポジションにはいるが、その役割は違うだろう)

 

 少女漫画であるちはやふるは恋愛描写があるのは仕方ないが、そもそも少年漫画に恋愛描写は必要なのだろうか?

 例えばドラゴンボールにしろ、ワンピースにも恋愛描写はない。悟空とチチ、ルフィとハンコックを恋愛と呼ぶのであれば、世の中の恋愛ものを扱う作家に激怒されること間違いなしである。

 他にもハンターハンター、銀魂、こち亀もそうだし、ジョジョ、キン肉マンも恋愛と呼べるほどのものはないと言っていいのではないだろうか。

 ジャンプ漫画においては恋愛描写というものは1つの要素としては当然あってもいいものだが、必ず必要なものではない。

 

 私があまり恋愛描写を好まないというのもあるのであるが、おそらく恋愛描写を入れることによって、作品の軸がぶれてしまうということも十分にありうると思うのだ。

 例えば『横綱になる(チャンピオンになる)』という目標と『ヒロインと結ばれる』という目標は直接には結びつかない。その目標はあくまでも2つの別個の目標であり、そのどちらを最終目標にするのか、という点で物語の軸というのは変わるものだろう。

 

 もちろんその目標が結びつく場合もあるのだが(例ラスボスがヒロインを誘拐して、

取り戻すために倒しに行くなど)うまく作らないと軸がぶれてしまう。

 

 恋愛描写というものは読者から求められることも多いものではあるが、その分さらりとした描写に抑えることも難しく、加減がつきにくいということがあるだろう。物語に必要ならば入れてもいいが、連載している媒体が少女漫画誌のちはやふると違って、少年漫画の日の丸相撲には必ず必要なものではないと思われる。

 

 以上が私の分析した日の丸相撲の面白さ分析の結果である。

  

火ノ丸相撲 9 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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火ノ丸相撲 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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