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物語る亀

ネタバレありの物語批評

少年Aの表現の自由について考える。

 今更ながら少年  Aがブログを始めた時に思ったことをアップします。 

 なお、私はこの事件のことは幼かったので後の報道などでの知識しかない世代の人間ですので、当時のことを知る方とは感覚が違うかもしれません。 

 


 


 私が最も重要な自由だと思っているのは、『表現の自由』です。 
 これを侵害するような人には怒りを覚えます。しかし、このようなことが起きるたびに、表現の自由とは何だろうか、ということを考えざるを得ない。 
  
 表現の自由だと堅苦しいので、これをわかりやすく言い換えると『お前の意見は絶対に認めないが、それをいう権利は死んでも認める』ということでしょう。この中の、死んでも認めるというのが重要です。 

 当然のことながらこの神戸連続児童殺傷事件自体は『死んでも認める』と言いません。「気持ち悪い」「反吐が出る」行為だと思います。 
 しかしながら、ちょっと前に流行った極めてグロテスクで暴力的な映画作品は「気持ち悪くて」「反吐が出る」作品でありながらも、その表現自体は『死んでも認めます』 
 逆に非常に美しく、好みの女性が全裸で街を出歩いたり、性行為をする映像群に対しては品はないものの見れたらラッキーと思うけれども、『死んでも認める』とまではいいません。 
 つまり、自分が気に入るか、気に入らないかは表現の自由とは全く関係ない。気にくわないから、気持ち悪いから表現規制というのは単なる焚書にしかなりません。 


 おそらく彼は表現欲というものが非常に強い。 
 その表現を気持ち悪いから取り上げるというのは反対です。彼のような表現欲が強い人間から表現自体を取りあげてしまうと、より簡単に周囲の耳目を集めるようなエキセントリックな犯罪を行う可能性がある。 
 いや、表現を取り上げたからって人を殺さないでしょうと思う方は、秋葉原の事件を思い返してください。彼の犯行動機は「世界中から無視されたから」です。 
 表現には個人の主張や思いを伝えることによって、その鬱屈した感情を昇華する効果があります。それを取り上げられると、感情は溜まる一方でいつか爆発してしまう。 
 特に表現欲が強い人間はそうでしょう。 


 それでは今回のブログの内容はどうなのかと問われたら、それは太田光と同じで『ダサイ』の一言につきます。 
 グロテスクなものの中にも目を離せないような作品はたくさんあるし、気持ち悪いと思いつつも見てしまうものが本物の芸術でしょう。 
 しかし、今回のブログの内容は今時ネットを探せばいくらでもありそうなレベルだし、<閲覧注意>なんて頭について誰が見るかわからないようなまとめサイトに載るか載らないかのレベルでしょう。 
 結局、事件の時に使った名称を掲げなければ誰にも見てもらえなかった。その名称を出した時点で彼の表現の稚拙さを露呈している、その程度のレベルです。 


 ただ、彼のことを笑えるかと問われると、私は彼を笑えません。 
 彼の最大の不幸は表現欲は非常に強かったにも関わらず、それを昇華する手段があのようなグロテスクなものしか思いつかなかったということでしょう。 
 裸で街を歩く、町中で人を殴る、盗みを働く、その場面を動画サイトにアップする……等、犯罪で自分を表現するというのはあまりにも稚拙で工夫のない、誰でもまず始めに思いつくやり方です。その表現自体は極めて非凡であるように思えて、実は非常に平凡なことです。 
 それで得る興奮は『反射』でしかありません。世間の目は自分に注がれて気持ちいいかもしれませんが、そんなものは表現として下の下であり、ISと何も変わらない。やろうと思えば私どころか、世界中の人間が明日にもできてしまう表現です。 
 けれども、彼にはその表現手段しかなかった。 
 それしか思いつかなかったし、それ以上の物がなかった。 
 未成年の時期にそういった暴力的な暴走をするということは、普通にあり得る話だと受け止めています。 

 彼が捕まった日に死刑執行された永山則夫のように、文学界でも評価される囚人はいます。もちろん永山と彼を同列に扱うことはないですが、人を殺すというそれだけのエネルギーがあれば世に残せる物もあったでしょう。 
  

 このまま気が済むまで表現を続け、誰も傷つけずに済む人生を送ることを祈ります。

 

 週刊文春の実名報道についてはこちら

 

 

monogatarukame.hatenablog.com