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物語る亀

ネタバレありの物語批評

私がドラマを見ない三つの理由

 ドラマカテゴリーを作ったにも関わらず、ドラマを見ないと公言しているのが私である。アニメはこのブログでたくさん書いているし、漫画も読めば映画も東西を問わずに見ている。落語も好きだし、あまり鑑賞の機会がないが演劇も好きだ。

 基本的に物語と呼ばれるものはたくさん見ているのだが、ドラマだけはあまり見ることがない。その理由をこれから書いていきたいと思う。ドラマ嫌いなオタクの戯言だと思っていただければ。

 

 

 1 そもそも1時間が長い

 現代社会においてテレビに拘束される時間は短ければ短いほどいい。そもそも、1日においてテレビをじっくりと見る時間は、おそらくよほどヒマでもない限り3時間もあれば多い方ではないだろうか。

 確かにこれが20年ほど前のトレンディードラマ全盛期の時代であれば、テレビドラマを一時間見ることなんて苦ではなかっただろう。だが現代において、ネットもあれば録画機能も充実している時に、わざわざリアルタイムに1時間もテレビを見るということは、よほど熱心なファンでもない限りはあまりない。

(熱心なファンというのが大事な部分)

 

 これがバラエティであれば大体おもしろい番組は最低1年ほどやってくれるし、それを見るのが習慣化すると思う。だが、ドラマの場合においては大体の作品が1クール、3か月もすれば終わってしまい、そこからまた新しいドラマが始まっていく。

 これはよほど熱心なファンでない限り、追っかけていくというのは大変であり、また沢山あるドラマ作品の中から、お気に入りの一作を見つけるにはとにかく視聴するしかないのだが、アニメであれば30分で大体終わるのに対して、ドラマは1時間見なければならないわけだから、単純に見る労力が2倍かかる。

 さらに言えばこれは当然の話だが、ほとんどの視聴者が1話を見てから2話を見る。例えば5話から見始めるという人は少ないのではないか?

 これでは新規の視聴者を獲得するのは難しいと考えている。

 

   

 2 ドラマは『誰』を語るのか?

 この場合の誰、というのは特定の人物ではなく、どの役職を語るのかという意味である。

 

 例えば映画の場合では、その多くの場合は俳優や役者を語ることが多いかもしれないが、作品自体の出来を語る際には『監督』であり『脚本』であり、『演出』を語る文化がある。

 

monogatarukame.hatenablog.com

  私の書いた上記の記事ではダニー・ボイル監督とアーロン・ソーキンという脚本家の物語の作り方について書いてきた。役者に関することは、一切書いていない。

 またアニメに関しても声優について語ることもあるが、映画と同じように監督、脚本、演出、作画監督について語る文化はある。

 

 ではドラマの場合は誰を語るのか?

 プロデューサー? 総合演出? 脚本家?

 いやいや、視聴者はそんなところはあまり注目していない。プロデューサーの名前なんてほとんどの人が知らないし、総合演出が誰々だからドラマを見ているという話はあまり聞かない。

 強いて言うならば脚本家はまだ語る文化があるのだが、橋田寿賀子、宮藤官九郎、三谷幸喜などの有名脚本家がいるにはいるが、ではその作品の責任をその人たちが負うかというとそれはまた別の話のように思える。(アニメだって黒田洋介や岡田麿里、吉田玲子などの優れた脚本家はいるが、その責を取るのは監督である)

 

 そりゃ、映画だって監督が全て作業しているわけではないし、脚本や演出、美術、音楽が一所懸命にやってきたからこそ完成する総合芸術である。だが、その功績も責任も全て監督に集まってくるからこそ、監督というのは名誉も罵声も浴びるわけだ。

 

 

 ではドラマも場合は誰を語っているのか?

 役者である。

   

 3 基本的に役者しか語ることがない

 ドラマを語るということは、そのほとんどの場合において『役者を語る』ということと同義である。

 例えばテレビの宣伝も役者ばかり出てくるし、特集を組んでも語るのは役者、ドラマ好きな一般人が集まっても、「主演の誰々がかっこいい」だの、「脇役の誰々が渋い」だのという話に終始してしまう。

 役者の上手い下手は語っても、音楽の良し悪し、脚本の妙、演出の奇抜さ、はまり具合、そういったものは語られることなく、「このドラマ面白いよね、あの主演の誰々がさ……」という会話がドラマを語るということの90%を占めている。

 そう、上にあげた『熱心なファン』というのは『熱心なドラマファン』ではなく、『熱心な役者のファン』ということになる。

 

 全くの無知の人間がその文化を語ろうとした際に、そもそも誰が責任者なのかということをはっきりさせてもらわないことには、語りようがないのだ。例えば脚本なんてものは、テレビの事情からしていくらでも変えられてしまうし、映画にしろアニメにしろ、監督などのお偉い方の意向に沿って変更を強いられるのは常である。納得しない展開であっても、そうしなければならないことが多く、プロであるのだから作り手側が納得するものを提示しなければならない。

 

 アニメや映画であれば、そのあたりの事情はなんとなく察することができるのだ。

 例えば「ああ、あの監督は過去作からしてこう言ったテーマを持っているから、こういった展開にしたんだな」とか、「作品のやりたいことと尺が合わずに削りに削った結果だな」とか、なんとなくわかる。

 だが責任者がわからないということは誰がどういう意図を持って行ったのか、ということが予想もできなくなる。だからドラマというものはその本質を語るものではなく、単なる話題として周囲と共有するものとしてしか成立していない。

 

 まあ、テレビの意義だったり、ドラマの歴史を辿ればそれでいいのかもしれないけれど、私みたいな邪推するオタクからすると、語ることがないというのはつまらないものだ。

 もちろんそれを語るほどの作品もあるだろうが、そんな作品に出会える確率があまりにも低いと思う。それに出会うために1話1時間も消費してられないし。

 

 ちなみにドラマの悪口を書かせると後2本はかけるのだが、それは後述する。

 タイトルは「ドラマにおける『役者の演技』の嘘臭さ」と、「そもそもドラマは面白く作りづらい構造をしている」の2本をいつか書こうと思っている。

 3つと言っておいて、実はそれ以上あるのだ。

 

blog.monogatarukame.net

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 ちなみに、真田丸は好き。大河ドラマ(と朝ドラ)は上のことに半分当てはまりつつも、実は少しだけ違うと書いておく。

 

monogatarukame.hatenablog.com

  

 

夢を与える (河出文庫)

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