物語る亀

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物語愛好者の雑文

小説『火花』感想 又吉直樹は高すぎるハードルを越えられるのか?

 劇場公開も近いので『火花』の記事を更新します。

 

 2015年に発売された書籍の中で、最も売れた本は又吉直樹の『火花』だったようだ。

 当然のことながら芸人としての知名度込みの人気だろうが、芥川賞を取ったことでより注目度は増してしまい世間では『太宰越え』なんて言われてしまう始末(太宰どころか村上春樹も、高橋源一郎もよしもとばななにも与えられてないけれど)。

 ここ最近の芥川賞が話題性重視に見えることもあってか、一部では批判がありはしたものの、この結果そのものには大きな反感はなく世間では又吉先生などと言われている(ほとんどが綾部のせいだが)

 ではこの火花について私がどう考えるか、ちょっと考察したことを書いていきたい。

 

 なお、今回の記事中で出てくる『純文学らしさ』というものは議論の余地があるが、私は『小説でしかできないこと』と定義づけしているということを始めに明記しておく。

 

 

 

 

 

火花 (文春文庫)

 

『火花』は純文学なのか?

 

 文壇や小説好き(特に純文学)の中には又吉の受賞は知名度こみのものであって、純粋な作品の評価ではないという人がいる。

 もちろんそれは嫉妬であり、どれだけわめいても審査員が選んだのだから、それがおかしいというのは勝手だが今更取り消すこともできない。

 だがこれで「芸能人は人気があるから売れるが、作品自体は読めたものではない」というロジックが通用しなくなってしまい、それが余計に純文学ファンの中で苛立ちを募らせているのだろう。

 

 私個人の意見としては火花はとても面白かったし、古風な純文学らしさは感じた。

 ただ私はどちらかというと芥川賞よりは直木賞を重視しており、純文学よりは大衆文学を愛する人間なので、そういう人間に受けたということはあまり純文学らしくはないのかもしれない。

 そもそもこの作品は今最も実験的な作品に贈られるという三島賞を落選しており、新たな地平線を切り開くという意味では純文学らしくはない。例えば綿矢りさの蹴りたい背中などはその言葉使い、特に比喩表現が新しい感性によって支えられた天才的なものだったし、近年では黒田夏子のabさんごはもはや文法や言葉の使い方そのものが常識からすると全くデタラメで理解不能なものであったが、逆にそれが日本語という言語の再認識を促したと言われている。

 

abさんご

 

 その視点からいくと、火花という作品は文章そのものに小説界の新たな地平線を切り開くような力はない。

 だからこそわかりやすいし、広く大衆に受け入れられる余地はあるが、じゃあそれが純文学かと問われると少し疑問符があるのも事実だ。

 だが、この作品が芥川賞にノミネートされることがおかしいかと言われると、それは違うと思う。古風な言葉使いは丁寧で美しく、そこに自分の文学的センスを織り込もうとしているのははっきりと伝わってきた。又吉直樹の文章力がないと成立しない作品だったし、やはり純文学ではあったと思う。

(そもそも芥川賞が日本で最も栄誉な賞みたいに扱われるが、実際は単なる新人賞だし、そこまで目くじらたてるものでもない)

 

 

 

火花の面白さとは?

 

 小説を書くのは難しいと多くの人が思っているかもしれない。

 それはあながち間違いでもなくて、確かに立派な文章で物語を書く、量産するというのはそれなりに難しいことだ。特に量産するとなると、発想や文章力が物を言う。

 だが一冊だけであれば誰でも書けるというのが私の持論だ。

 まず文章は殆どの日本人が書ける。日本人の識字率は99%を超えていると言われ、盲目の人や障害を抱える方以外での、教育環境などに由来する文盲の方は現代では殆どいない。少なくとも私は出会ったことがないし、社会問題に発展するほどのことではない。

 上手い下手は訓練でどうにでもなり、書いていれば自ずと身につくし、そもそも上手い文章=素晴らしい小説でもなければ、面白い小説でもない。それはあくまでも一要素でしかないのだ。

 

 いや、物語を考えられないよ、と言う人は一番簡単な方法がある。

 自分の人生を語ればいいのだ。

 世界で一番面白いのは、一人ひとりの人生であり、小説で描かれているのは架空の(あるいは実在の)人間の人生である。大体少なくとも20年、30年も生きていればそれなりの波乱や苦労はあるわけで、書くことがまったくない人などはこの世にはいない。仕事や職場、友人、恋人、家族のことを書けばいいし、引きこもりならばその世間との乖離を描けばいい。そこには必ず苦労もあれば楽しいこともあって、それなりにその人しか感じない人生というものがあるのだ。

 

 私が今まで見てきた中で、芸能人が本を(小説以外でも)出すとほぼ八割ほどの人が自分の人生や思想について書いている。

 例えば大ヒットしたホームレス中学生もそうだし、品川祐のドロップもそうだ。これは衝撃の実話として帯に大々的に書かれ、宣伝し、山のように積まれていた。

 

ホームレス中学生 (幻冬舎よしもと文庫)

 

 これは芸能人にとって書籍販売が単なる副業に過ぎず、本業が別にあるからであり、私も否定をしない。それはそれで需要があるし面白いものがあると思う。

 

 だが、文筆業で食べていこうとしている小説家志望者にはオススメしない。

 結局のところ自分の人生が一番面白いのが明白であり、それを一冊書いてしまうと一度しかない人生を描いてしまったのだから多くの人は次の作品が書けなくなる。よほど面白い経験をたくさんしているか、もしくは意識的に切り売りしているような作家でない限り、一作で書くことがなくなってしまう。(西村賢太ほど面白い人生でないと難しい)

 その意味では、この作品は『作家』又吉直樹の火花は作家人生を考える上では劇薬だと思う。

 何せお笑い芸人が漫才について語っているのだ。しかもそれなりに売れっ子で、本が大好きな人間なのだから、面白いに決まっている。

 だがこの先を考えた場合、これはあまりにも自分の人生を詰め込みすぎたのではないか?

 劇場版で危惧しているのも監督がお笑い芸人の板尾創路であり、主題歌が北野武の『浅草キッド』であることからも『お笑い芸人がお笑いについて語る』映画になることはほぼ間違いなく、それが笑えないものになるのではないかという点である。

 

 

 

 

又吉直樹は次回作が書けるのか?

 

 ここが作家として非常に大事な部分であり、一つの作品を書き上げただけでは作家として世間には認められづらい。

 どんなつまらない駄作だとしても、三作は書き上げなければ小説家と言っていいのかは判断しかねるのだ。

(例外としては風と共に去りぬのマーガレット・ミッチェルであり、これほどの歴史に残る大作を書きあげれば作家の仲間入りできるだろう)

 

 火花が百年後に読まれているかというと、多分そんなことはない。十年後には懐かしくなり、五十年後には誰もが忘れ、又吉直樹の死とともに葬り去られるかもしれない。

 これだけ話題になったのも作品の力ではなく又吉直樹という名前があったからなのは誰が考えても自明のことであり、その名がなければここまで話題にはならなかった。

 小説家というものは基本的に作品が評価されて、次にその作者も評価されるものだ。逆に作者が評価され、作品が評価されるという手順を踏むことは基本的にない。だから作家に価値があるのではなく、作品に価値がある。(これは卵が先か鶏が先かになる議論だ)

 

 さらに言えば、初めてのデビュー作がこれだけ評価されてしまい、しかも売れてしまった。これは次回作にかかるハードルが非常に高いわけで、ここを越えることは難しい。

 エッセイぐらいならば書けるだろうが、それはブログが書けるから小説が書けるかというとそうではないのと同じように、エッセイが書けるから小説が書けるということでもない。(逆もまた然り)

 そういう意味では、私は又吉に芥川賞をあげないで欲しかった。

 本来真価を評価されるべきは次回作であり、それを固定化させるのは次々回作であるはずなのに、そこを焦り過ぎてしまった感すらある。

 

 私は又吉直樹の小説を評価しているからこそ、芥川賞受賞は時期尚早だったように思えてならないのだ。

 だが、本人も言うようにお笑い芸人が優先であって、小説はあくまでも副業というのならば仕方ない。しかしそれも映画監督としての二足のわらじをうまく履いている北野武のような存在になるのは非常に難しくて、どうしても作家の影がちらついて本業にも影響が出るような気がしている。

 その意味においてはこの火花という作品は、それこそ又吉直樹の人生に火花をもたらしたのかもしれない。

 それが火花で終わるのか、大爆発を起こすのか。

 

 少なくとも次の作品である『劇場』に関する話は私は一切聞こえてきていない。

 ここで火花が芥川賞を取らず、劇場かその次の作品が話題になった方が良かったのではないか? という思いはいまだに抜けていない。

(ちなみに自分は火花の方が劇場よりも良かった)